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【小山城の虎口】小山城の虎口もなかなか印象的だった。

4年ほど前に訪問したので、正確な場所は忘れ申した。

小山城の虎口

作成日:2014/12/2 , 地図あり, by rekius 開く

小山評定の城、小山城 栃木県 小山市

【小山城の空堀】小山城の空堀は想像以上に遺構が残っていた。
小山氏のあと、北条、徳川が統治しているので、その改修を受けていると思われる。

4年くらい前に訪問したので、正確な場所は覚えていない。

小山城の空堀

作成日:2014/12/2 , 地図あり, by rekius 開く

小山評定の城、小山城 栃木県 小山市

【小山評定の城、小山城】先週の大河ドラマ(20014年11月30日)で、徳川家康と諸将が石田三成挙兵への対応を小山城で話し合うシーンがあったが、ここがその小山城。

この軍議を「小山評定」という。実際に小山評定が開かれたのは、小山城南の須賀神社境内とのこと。

小山城は小山氏の居城で、小山氏は小山義政の乱(1380-82年)で衰退するまで栄えた。

写真にあるように、城の西側を思川が北から南に流れている。
西側以外は深い堀で囲まれていて、今でも遺構が残っている。

小山評定の城、小山城

作成日:2014/12/2 , 地図あり・方位あり・方位あり, by rekius 開く

関ヶ原の戦い 徳川家康 小山評定 小山評定の城、小山城 関ヶ原の戦いー小山評定ー 栃木県 小山市

【姫路城の土塁】姫路城というと、石垣の城というイメージがあるが、中枢部を離れるにつれ、このように曲輪の内側は土塁になっている。

姫路城の土塁

作成日:2014/12/1 , 地図あり・方位あり・方位あり, by rekius 開く

兵庫県 姫路市

【姫路城清水橋方面から天守を撮影】姫路城清水橋方面から天守を見上げると、北勢隠門跡がみえる。
その奥が曲輪、水濠、断崖+鬱蒼とした森。

南から見る姫路城とはまた違った印象でした。

姫路城清水橋方面から天守を撮影

作成日:2014/12/1 , 地図あり・方位あり・方位あり, by rekius 開く

兵庫県 姫路市

【姫路城内濠北側から石垣を撮影】姫路城内濠北側はわりと石垣に草木が生えていました。
まあ、これはこれで風情がありますが。

右奥の門が北勢隠門跡。

姫路城内濠北側から石垣を撮影

作成日:2014/12/1 , 地図あり・方位あり・方位あり, by rekius 開く

兵庫県 姫路市

【動画|関ヶ原の戦いー豊臣秀吉の死去から石田三成の挙兵までー】豊臣秀吉の死去から石田三成の挙兵までを説明した動画です!
経緯、人物相関図、戦略マップを入れ込みました。

詳しくは→ http://rekius.com/notebooks/60

動画|関ヶ原の戦いー豊臣秀吉の死去から石田三成の挙兵までー

作成日:2014/11/30 , by rekius 開く

軍師官兵衛 動画 関ヶ原の戦い 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー 関ヶ原の戦いの動画

【人物相関図:関ヶ原の戦い−石田三成挙兵 1600年−】慶長4年(1599年)、前田利家死去を受けて、利家の子・前田利長が前田家の家督を相続した。

9月、徳川家康暗殺未遂事件が発生した。徳川家康は、前田利長らが家康を暗殺しようとした罪で、利長討伐の軍を招集した。
結局、(本当に利長が家康を暗殺しようとしたのかは不明だが)利長は家康に謝罪し、母(前田利家の妻)を人質として、家康に差し出した。これにより、五大老の一人で北陸の雄・前田家が家康の傘下に入った。

慶長5年(1600年)4月、徳川家康は、会津の上杉景勝に謀反の疑いをかけた。景勝は、2年前に越後から会津120万石に国替えされたため、新領地の富国強兵のために勤しんでいた。
5月3日、上杉景勝の重臣、直江兼続から上洛拒否の書状が家康に届く(直江状)。
これを受けて、徳川家康は上杉景勝討伐の準備に入った。6月16日、家康は大坂城を出陣した(江戸城には7月2日に到着)。

石田三成は家康が機内を留守にしたことを受けて、動きを活発化させた。
光成は安国寺恵瓊・増田長盛らと計り、毛利輝元を大坂城に入城させることに成功(7月16日)。輝元を西軍の総大将とした。
7月17日、石田三成、挙兵(「内府ちがいの条々」を諸大名に送り、家康(内府)を弾劾。事実上の宣戦布告となった)

人物相関図:関ヶ原の戦い−石田三成挙兵 1600年−

作成日:2014/11/30 , by rekius 開く

関ヶ原の戦い 人物相関図 石田三成 徳川家康 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー

【人物相関図:関ヶ原の戦い−前田利家の死去 1599年−】豊臣政権の功臣である前田利家の影響力によって、徳川家康・武断派、文治派の争いを辛くも回避していたが、その前田利家が慶長4年(1599)閏3/3に死去。

そのため、武断派・文治派の争いが一挙に表面化した。利家死去の翌日、武断派の七将、石田三成を襲った。石田光成は伏見城に逃走したが、結局、居城の佐和山城に蟄居させられることとなった。

人物相関図:関ヶ原の戦い−前田利家の死去 1599年−

作成日:2014/11/30 , by rekius 開く

関ヶ原の戦い 前田利家 人物相関図 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー

【人物相関図:関ヶ原の戦いー豊臣秀吉の死去ー】慶長3年(1598年)が豊臣秀吉が死去し、朝鮮出兵で生じていた豊臣政権内部の武断派(加藤清正、福島正則、黒田長政ら)と文治派(石田三成ら)の対立が表面化しつつあった。この対立は、石田三成らが武断派の不利な報告を秀吉にして、武断派諸将を窮地に追い込んだのが原因だった。

一方、徳川家康は文治派と対立する武断派を取り込みを図り、かつ、伊達政宗の娘と六男・松平忠輝の政略結婚を推進するなど、野心を露わにしはじめた(秀吉生存時、大名間の婚姻には秀吉の許可が必要だった)。

しかし、豊臣秀吉を支えてきた前田利家が、野心を見せる徳川家康、豊臣政権内部の武断派(福島正則・加藤清正ら)、文治派(石田三成ら)に睨みを効かせていたため、何とか平穏は維持された。

人物相関図:関ヶ原の戦いー豊臣秀吉の死去ー

作成日:2014/11/30 , by rekius 開く

関ヶ原の戦い 豊臣秀吉 前田利家 人物相関図 徳川家康 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー

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