入間川が北を通る。北武蔵の鉢形城、南武蔵の江戸城を結ぶ、中武蔵の最重要拠点。

享徳の乱がはじまり、扇谷上杉氏は古河公方と対立すると、河越城は武蔵の拠点として、扇谷上杉氏の重臣、太田道真、道灌親子によって築かれた。

河越城は、入間川を押さえる要地にあった。扇谷上杉氏としては、太田道灌の守る江戸城、扇谷上杉氏当主が城主である河越城、そして、古河公方との戦いの最前線拠点である五十子陣のラインを重視していた。
享徳の乱が終わり古河公方との和睦がなると、山内上杉氏と扇谷上杉氏は戦いをはじめた。後北条氏は、この争いに付け入って、勢力を拡大し、ついに河越城を奪った。
1546年、山内上杉氏・扇谷上杉氏・古河公方は争いをやめ、連合して、後北条氏の守る河越城を大軍で囲んだ。しかし、連合軍は北条氏康率いる援軍に撃破され(河越夜戦)、扇谷上杉氏は滅亡し、山内上杉氏、古河公方ともに勢力を減退させたため、後北条氏は武蔵の覇権奪取に向け、大きく前進した。

読み: かわごえじょう / kawagoe-jo
別名: 河越城 初雁城
URL: http://museum.city.kawagoe.saitama.jp/hommaru/

日本100名城 日本 埼玉県 川越市

作成日:2014/06/11

関連情報: Wikipediaツイート で「川越城」を調べる

「川越城」の関連ノート

【GPS+wifi付き一眼レフ Canon EOS 6D レビュー】<p>今年(2013年)5月に、Canonの一眼レフカメラ Canon EOS 6D を購入した。</p>
<p><a>Canon EOS 6D 公式サイト</a></p>
<p>購入から約5ヶ月経過し、このカメラで歴史系写真を中心に約5000枚程度撮影した。<br> 購入からざっくり振り返ってみたい。</p>
<p><a><img></a><br> <img></p>
<h2>一眼レフ前史: コンデジからiPhoneへ</h2>
<p>3年半ほど前に、歴史系写真を本格的に撮りはじめたが、その時に使ったのがPanasonicのデジカメ(コンパクトデジタルカメラ)だった。<br> 2年半ほど前に、iPhone4を入手し、デジカメとiPhoneで撮影していたが、iPhoneの使用比率が徐々に増え、昨年はiPhoneのみで撮影していた。</p>
<p>前 出のPanasonicデジカメには、GPS機能はついていなかった(当時はそういうものだった)ため、今となってはどこで撮影したのか分からない写真も 多い。また、wifi機能も付いていなかったので、写真の投稿は帰宅後ということになる。その点、iPhoneはGPS付きで、Twitter投稿も簡単 だったため、徐々にデジカメはiPhoneにその座を譲った。</p>
<p>どこで撮ったかという位置情報を記録しておかないと、時間の経過とともに忘れてしまう。特に、ブログを書きはじめてから、GPS機能は自分には必須だと思うようになった。</p>
<h2>iPhoneから一眼レフへ</h2>
<p>一眼レフの購入を決めるきっかけは、知人との打ち合わせだった。<br> 話の中で、美しい写真の重要性を認識した。</p>
<p>ちょうど仕事の合間だったこともあって、翌日じっくり検討し、GPS+wifi付き一眼レフ Canon EOS 6Dを買うことにした。翌々日、西新宿のヨドバシカメラへ行って、店員さんに相談・確認の上、Canon EOS 6Dを購入した。</p>
<h2>GPS+wifi付き一眼レフ Canon EOS 6D</h2>
<p>■ GPS(位置情報)<br> 一眼レフは、確かにiPhoneやデジカメ(コンパクトデジタルカメラ)を寄せつけないクオリティがある。<br> しかし、写真に位置情報を付けられないなら、自分は一眼レフカメラを買わなかっただろう。つまり、自分にとって重要なのは、位置情報を付けられる一眼レフがあるかどうかだった。</p>
<p>5ヶ月前に調べたところ、一眼レフでGPSとwifiが両方内蔵しているのは Canon EOS 6D だけだった。そのため、6Dに決めた。</p>
<p><a>外付けGPS</a>(「GPSレシーバー GP-E2 25,000円(ケース付き、税別)」らしい)も売っているが、大きな一眼レフがさらに大きくなり、動きながら撮影する自分のスタイルには合わないと判断した。</p>
<p>ただ、残念ながら、6Dの内蔵GPSでは方位までは取得できない。<br> この点、iPhoneの方が優っている。</p>
<p>なお、6Dの内蔵GPSの精度は、実感としてはiPhone5と変わらない。</p>
<p>■ wifi<br> 6Dにはwifiも内蔵されているため、一眼レフで撮影したあと、iPhoneに写真を移し、即座に共有できる。</p>
<p>* 6DからiPhoneに写真を移すには、iPhoneに”<a>EOS Remote</a>”というアプリをインストールし、iPhoneから6Dのwifiに接続する操作を行う。</p>
<p>こ の点も重要で、写真の中には即座に Twitter/Facebook/Instagram などで共有したいものもある。6DからiPhoneにwifiで移した写真は、GPSなどをはじめ、ほとんどの付加情報が欠落してしまうのが欠点だが、即 座に共有する写真は、目的が記録ではなく、コミュニケーションなので、気にしていない。また、<a>Instagram</a>のように、SNSの方で位置情報を付けられるサービスもある。</p>
<h2>Canon EOS 6Dの難点</h2>
<p>1.Canon EOS 6Dというよりも一般的に、一眼レフは重い。6Dは5D MarkⅢなどよりは軽いが、iPhoneやデジカメと比べると、ズッシリくる重さ(約1.4kg)だ。最近、筋力が付いてきたのかマシにはなったが、機 動力が2割程度は落ちるイメージである(6Dを持って、歴史めぐりすることを別名「一眼筋トレ」と呼んでいる。。親しみを込めて)。<br> 2.一眼レフは大きいため、自転車との相性もいいとは言えない。どうしても、カメラ用バッグが1つ増えてしまう。また、撮影対象を見つけてから、カメラ バッグからカメラを取り出して撮影となるので、特に移動中はiPhoneやコンデジよりも撮影するまでのスピードが劣る。</p>
<p>それでもなお、自分が6Dを使っているのは、位置情報付きのハイクオリティ写真を撮れるためだ。<br> 6Dでうまく撮れた時の感動は大きい。</p>
<h2>Canon EOS 6Dで撮影した写真</h2>
<p>以下、6Dで撮影した写真である。<br> ご参考までに。</p>
<div>写真をクリックすると、リンク先のページにマップがあり、撮影位置が分かります。</div>
<p>■ 石碑<br> ・鎌倉の十二所にある大江広元邸跡(2013年9月1日)<br> <a><img></a></p>
<p>■ 建物・櫓<br> ・二条城本丸にある御書院の玄関車寄(2013年9月25日)<br><a><img></a></p>
<p>■ 石垣<br> ・雲海で有名な竹田城: 南二の丸から本丸の石垣を見上げる(2013年9月21日)<br> <a><img></a></p>
<p>■ イベント<br> ・新井城の笠懸「道寸祭り」(1)(2013年5月26日)<br> <a><img></a></p>
<p>・新井城の笠懸「道寸祭り」(2): この射手は女性で、男性射手の重厚さと比べて、優美さを感じる。(2013年5月26日)<br> <a><img></a></p>
<p>■ 風景<br> ・竹田城: 竹田城北西の藤和峠より撮影(2013年9月21日)<br><a><img></a></p>
<p>■ 料理<br> ・川越城サイクリングを終えて、イタリアンで締めた時の写真(2013年5月19日)<br><a><img></a></p>
<p>■ ネコ<br> ・浄妙寺の五輪塔で寝ていたネコ<br><a><img></a></p>
<h2>Canon EOS 6Dとコンデジ(Canon PowerShot SX280HS)の写真を比較</h2>
<p>■ 鎌倉 亀ヶ谷切通しの地蔵菩薩をSX280HSと一眼レフで撮り比べてみた。<br> なお、亀ヶ谷切通しは山ノ内と扇ヶ谷を結ぶ亀ヶ谷切通し。切通しとは、鎌倉を出入りする細い通路で、鎌倉の治安維持・防衛の役割も果たした。</p>
<p>・コンデジ(Canon PowerShot SX280HS)で撮った写真<br> <a><img></a></p>
<p>・Canon EOS 6Dで撮った写真<br><a><img></a></p>
<p>両者は、同じ日・ほぼ同じ時間・アングルで撮影した。<br> やはり、一眼レフの方が鮮明ではないだろうか。</p>
<p>*なお、このコンデジ(<a>Canon PowerShot SX280HS</a>)は、6Dとほぼ同じ時期(2013年6月)に6Dのサブ機として買った。</p>
<p>(終)</p>

GPS+wifi付き一眼レフ Canon EOS 6D レビュー

作成日:2014/6/27 , by fuji3zpg 開く

EOS-6D 一眼レフカメラ カメラーフィールドをゆく(6)ー

【荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-】<h3>舞台は赤浜</h3>
<p>鉢形城の東に赤浜という土地がある。ここが鎌倉街道上道の荒川渡河地点だった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 荒川の南岸、赤浜の渡し(渡河地点)付近。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>意外と少ない渡河地点</h3>
<p>川というのは、一見どこでも渡れそうだが、大河の場合、川底の地形や水量の多寡という条件があるため、渡れるところと渡れないところがある。渡れて、かつ、交通の便がよい場所が重要な渡河地点となる。</p>
<p>現在、荒川であれ、利根川であれ、川沿いを自転車で走ると、サイクリングロードが整備され、快適に走ることができる。基本的に堤防に囲まれているので、視界は限られる。その限られた視界に、橋が現れては消えてゆく。「○○橋」という橋の名前を見ないと、自分がどこまで走ったか、分からなくなる。</p>
<p>いずれにしても、これらの橋があることで、両岸を容易に行き来できる。だが、もし橋がなかったらと想像してもらいたい。渡るのは大変である。まず、川を渡ると、服が濡れる。転んで怪我をしたり、下手をすると、溺れて落命するかもしれない。であるから、かつて、渡河していた人々はおそらく何か用事があって川を 渡っていたはずで、荷物を持っていることも多かっただろう。</p>
<h3>架橋・治水技術の成果</h3>
<p>江戸時代に、大井川の増水によって、宿場町に何日も足止めされ、その間に路銀をすっかり失ったという話もあるように、大河というのは雨が降って増水すると渡れなく なることがあった。現代は極端な場合を除いて、川が増水して渡れないというケースは経験しないだろう。それは川の上流にダムなどの治水対策が施されていて、水量を調節しているためである。</p>
<p>実際、長尾景春の乱が発生した当初、太田道灌は相模にいる味方を呼び寄せて、江戸城-川越城ラインを遮断する豊島氏を攻めようとしたが、大雨で多摩川が増水して、相模勢は来ることができなかったという。</p>
<h3>渡河作戦の難しさ</h3>
<p>このように、橋とダムによって、現代では川を意識することが少なくなったが、中世における河川の状況は随分違ったことをお分かりいただけたと思う。しかも、軍事作戦で川を渡るとなると一層困難である。</p>
<p>まず、重量のある甲冑を身につけ、騎馬武者は馬に乗って渡河する。そればかりか、対岸には敵が手ぐすね引いて待っているのである。<br> 水の中では、陸上のように機敏に動けないから、まさに格好の標的となってしまう。そして、味方に死傷者を出しながらも、弓矢の雨の中を必死に渡って、運よく対岸に着いたとしても、優勢な敵が味方を袋叩きにしようと待っている。</p>
<p>このように渡河作戦は困難なので、孫子の兵法書に渡河方法が書かれている(行軍篇(第九))ほど、渡河はいくさにおける重要なテーマだった。</p>
<h3>扇谷上杉定正</h3>
<p>さて、この話の主人公は、扇谷上杉定正という人物である。<br> この男は、山内上杉顕定にそそのかされて、自分を擁立し、しかも自家の勢力を強めてくれた、家宰の太田道灌を謀殺した人物として歴史に記録されている。道灌を謀殺したことで、定正に見限りをつける勢力もあり、扇谷家の勢力は減退したが、定正は凡庸な人物ではなかった。</p>
<h3>定正、関東三戦に勝利する</h3>
<p>道灌謀殺後、定正は関東管領家の山内上杉顕定と対立関係に入った。</p>
<p>不利な形勢の中で、軍事面では長享2年(1488年)の関東三戦(実蒔原の合戦、須賀谷原の合戦、高見原の合戦)を有利に進め、外交では第2代古河公方の足利政氏や政氏の庇護下にあった長尾景春、そして、伊豆を奪取した北条早雲を味方につけ、山内上杉顕定に対抗した。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦</h3>
<p>その後、徐々に勢力を北武蔵に伸ばした定正はついに明応3年(1494年)に荒川に到達し、渡河しようとした。なお、この作戦には定正の援軍として早雲も参戦している。<br> もしこの作戦が成功し、上野国の山内上杉氏を倒せば、山内上杉氏に代わって、扇谷上杉氏が関東の覇者になれる可能性が出てくる。</p>
<p>だが、ここで思いがけないことが起こったのである。定正が荒川渡河時に落馬して、頓死してしまった。扇谷上杉氏の当主になってから約20年もの間、関東の戦乱を生き抜き、道灌謀殺後の苦しい時期も何とか切り抜けてきた定正に一体何が起こったのか。それは残念ながら分からないが、荒川の存在とその流れが彼の落 命の一因となったことは確かだろう。</p>
<p>定正落命は、司馬遼太郎『新装版 箱根の坂(下)』 (講談社文庫)<img>、伊東潤『疾き雲のごとく』<img>の第2話「守護家の馬丁」で書かれている(司馬さんの本では赤浜を過ぎた荒川北岸で、伊東さんの本では荒川南岸で死亡したことになっている。詳しくは各書籍をご覧いただきたい)。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦失敗時の関連人物たち</h3>
<div> </div>
<h3>定正の死と扇谷上杉氏の衰退</h3>
<p>原因はどうあれ、定正が死去したことで、元々、勢力的に劣勢だった扇谷上杉氏は急速に衰退していく。結果からみると、やはり彼の存在が扇谷上杉氏を支えていたことが分かる。</p>
<h3>早雲を関東に引き入れた定正</h3>
<p>もう1つ、彼の果たした役割としては北条早雲を関東に引き入れたことである。<br> 定正の養子、扇谷上杉朝良の代に早雲は小田原を手に入れ、関東の西の入り口に地盤を得た。そして、最終的に、早雲は相模一国を手に入れるのである。<br> それから半世紀ほど後、早雲の孫、北条氏康が最終的に川越夜戦で扇谷上杉氏を滅ぼすことになる。短期的に正しい決断が、長期的に見ると必ずしも正しくないこともあるという一例だろう。</p>
<h3>再び、赤浜</h3>
<p>私は赤浜の渡しで大きな石の前に立っている。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 赤浜の渡河地点付近の写真。</em><br><em> 岩の背後にある道路は、関越自動車道。時代は違えど、同じようなところに幹線道路が通っている点が興味深い。</em>
</div>
<div> </div>
<p>5月初旬だったこともあり、ボカボカ陽気で眠くなるようなところだった。<br> 中世の名もなき人々、そして、著名な歴史人物(たとえば、元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府を倒すため軍を率いて鎌倉街道上道を南下した新田義貞)もこの辺りを渡ったことだろう。<br> そして、高見原から鎌倉街道の上道を北上してきた定正は、鎌倉街道上道の高地から赤浜の低地の風景を目にしたあと、この辺りで荒川を渡河しようとして落命したのかもしれない。</p>
<p>今は近くに橋がかかっているので、釣り人らしき人以外、誰も顧みないこの地は、かつて坂東武者たちの生死を懸けた歴史の舞台だったのである。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 鎌倉街道上道から赤浜をのぞむ。対岸が北岸の花園。</em><br><em> 写真右側の川が荒川。赤浜の渡河地点である赤浜の渡しは、写真右端辺りにあった。</em><br><em> 赤浜の北岸が花園である。</em><br><em> 荒川を奥に行くと(西に行くと)、鉢形城がある。さらに、西に行くと秩父に至る。</em>
</div>
<p><a><img></a></p>
<div>2010年5月1日撮影:<br> 上の写真を撮影した付近に立っていた標識。<br> この近辺では、このような標識がいくつか立っている。</div>
<div> </div>

荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

赤浜の渡し 上杉定正 埼玉県 大里郡

【川越城】本丸の三芳野神社にある土塁。縄張り図を見ると、土塁上の休憩所の場所に、何らかの建物が建っていたようだ。

作成日:2013/5/24 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

埼玉県 川越市

【川越城】左(北)が二ノ丸があった川越市立博物館、右(南)が本丸。このまま東に進むと、台地が尽きて、低地になる。河越合戦の際、古河公方の足利晴氏は河越城の東に陣取っていた。

作成日:2013/5/24 , by fuji3zpg 開く

【川越城】川越市立博物館は、かつての二ノ丸跡地に建っている。

作成日:2013/5/24 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

埼玉県 川越市

【川越城】改修された本丸御殿。パッと見て、改修中の時と見た目は変わらないが、内部が新しくなったそうだ。

作成日:2013/5/23 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

埼玉県 川越市

【川越城】川越市役所前にある縄張り図

作成日:2013/5/22 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

川越めぐりー河越合戦から467年目ー 埼玉県 川越市

【川越城】中曲輪から三ノ丸方面(東)を撮影。「郭町」交差点が見える。交差点のすぐ東側に三ノ門があったようだ。

作成日:2013/5/21 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

川越めぐりー河越合戦から467年目ー 埼玉県 川越市

【川越城】中門堀跡。西大手門を経て、東に進むと、中ノ門に至る。中ノ門の南東に中門堀があった。中ノ門をくぐると、中曲輪に至る。

作成日:2013/5/21 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

川越めぐりー河越合戦から467年目ー 埼玉県 川越市

【川越城】川越市役所の太田道灌像

作成日:2013/5/20 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

川越めぐりー河越合戦から467年目ー 埼玉県 川越市

ノート【更新順】
岡山県の没落武士
江戸東京たてもの園を訪問
コルク社主催の伊東潤氏の第3回読者会に参加
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ノートまとめ【更新順】
関ヶ原の戦いの動画
淀川の城
姫路城大天守の昼・夕暮れ・ライトアップ!
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歴史年表【更新順】
『おんな城主 直虎』年表
花燃ゆ第2回「波乱の恋文」
歴史家・歴史小説家とその時代
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北条早雲
人物【更新順】
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周布政之助
小田村伊之助
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出来事【更新順】
新型コロナウィルス感染拡大に伴い、東京など7都道府県で非常事態宣言が発令
中国の武漢で新型コロナウィルスが人に感染
令和に改元決定
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世界史古代概論
世界史古代概略
ローマと前漢、不思議な成立の符合
古代の日本と西欧
戦国のはじまり
早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-
応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-
その他
2015年NHK大河「花燃ゆ」の関連情報
歴史系テレビ番組まとめ(2014年5月版)
大坂の陣で奮戦した毛利勝永の記事
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