鉢形城は、秩父と北武蔵、上野と北武蔵を結ぶ交通の要衝であり、当時の主要道である鎌倉街道の上道が当城の東側を通っていた。また、秩父から荒川が東流し、天然の堀として機能しており、築城にうってつけの条件を備えていた。

1476年、長尾景春が築城して以来、山内上杉氏、小田原北条氏など、城の主は変わったものの、1590年の豊臣秀吉の関東制圧まで(言い換えれば、室町末期から戦国時代の終わりまで)、北武蔵の重要拠点であり続けた。

読み: はちがたじょう / hachigata-jo

日本100名城 日本 埼玉県 大里郡

作成日:2014/06/11

関連情報: Wikipediaツイート で「鉢形城」を調べる

「鉢形城」の関連ノート

【歴史のよいサイトまとめ】<p><span>デジタルミュージアム</span></p>
<p><a>国立公文書館デジタルアーカイブ</a> :絵図(江戸時代)には国絵図や城絵図など、多数ある。</p>
<p><span>今昔マップ<br></span></p>
<p><a>盛岡城の今昔マップ(盛岡市HPより)</a></p>
<p><span>博物館</span></p>
<p><a>「ミュージアム/人文・歴史系」の美術館</a></p>
<p><span>城</span></p>
<p>八王子城: <a>ボランティアガイドの会</a><br>滝山城: <a>よみがえる滝山城</a><br>鉢形城: <a>鉢形城公園フィールドマップ</a><br>忍城: 「<a>歴史のまち・行田市のみどころガイド</a>」 *PDFをダウンロードできます。あと、行田氏郷土博物館で今昔マップが50円で売っていたのですが、大いに役立ちました。<br>城所在マップ: <a>日本の城 写真集</a> 城の数は多いですが、程よいマニアックさに抑えてある感じます。</p>
<p> </p>
<p><span>地域</span></p>
<p>神奈川県伊勢原市: <a>伊勢原文化財マップ</a> 糟屋館跡・太田道灌の墓・実蒔原古戦場など、伊勢原周辺の史跡がまとまっている。リンク先にガイドページあり</p>

歴史のよいサイトまとめ

作成日:2014/8/17 , by fuji3zpg 開く

【荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-】<h3>舞台は赤浜</h3>
<p>鉢形城の東に赤浜という土地がある。ここが鎌倉街道上道の荒川渡河地点だった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 荒川の南岸、赤浜の渡し(渡河地点)付近。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>意外と少ない渡河地点</h3>
<p>川というのは、一見どこでも渡れそうだが、大河の場合、川底の地形や水量の多寡という条件があるため、渡れるところと渡れないところがある。渡れて、かつ、交通の便がよい場所が重要な渡河地点となる。</p>
<p>現在、荒川であれ、利根川であれ、川沿いを自転車で走ると、サイクリングロードが整備され、快適に走ることができる。基本的に堤防に囲まれているので、視界は限られる。その限られた視界に、橋が現れては消えてゆく。「○○橋」という橋の名前を見ないと、自分がどこまで走ったか、分からなくなる。</p>
<p>いずれにしても、これらの橋があることで、両岸を容易に行き来できる。だが、もし橋がなかったらと想像してもらいたい。渡るのは大変である。まず、川を渡ると、服が濡れる。転んで怪我をしたり、下手をすると、溺れて落命するかもしれない。であるから、かつて、渡河していた人々はおそらく何か用事があって川を 渡っていたはずで、荷物を持っていることも多かっただろう。</p>
<h3>架橋・治水技術の成果</h3>
<p>江戸時代に、大井川の増水によって、宿場町に何日も足止めされ、その間に路銀をすっかり失ったという話もあるように、大河というのは雨が降って増水すると渡れなく なることがあった。現代は極端な場合を除いて、川が増水して渡れないというケースは経験しないだろう。それは川の上流にダムなどの治水対策が施されていて、水量を調節しているためである。</p>
<p>実際、長尾景春の乱が発生した当初、太田道灌は相模にいる味方を呼び寄せて、江戸城-川越城ラインを遮断する豊島氏を攻めようとしたが、大雨で多摩川が増水して、相模勢は来ることができなかったという。</p>
<h3>渡河作戦の難しさ</h3>
<p>このように、橋とダムによって、現代では川を意識することが少なくなったが、中世における河川の状況は随分違ったことをお分かりいただけたと思う。しかも、軍事作戦で川を渡るとなると一層困難である。</p>
<p>まず、重量のある甲冑を身につけ、騎馬武者は馬に乗って渡河する。そればかりか、対岸には敵が手ぐすね引いて待っているのである。<br> 水の中では、陸上のように機敏に動けないから、まさに格好の標的となってしまう。そして、味方に死傷者を出しながらも、弓矢の雨の中を必死に渡って、運よく対岸に着いたとしても、優勢な敵が味方を袋叩きにしようと待っている。</p>
<p>このように渡河作戦は困難なので、孫子の兵法書に渡河方法が書かれている(行軍篇(第九))ほど、渡河はいくさにおける重要なテーマだった。</p>
<h3>扇谷上杉定正</h3>
<p>さて、この話の主人公は、扇谷上杉定正という人物である。<br> この男は、山内上杉顕定にそそのかされて、自分を擁立し、しかも自家の勢力を強めてくれた、家宰の太田道灌を謀殺した人物として歴史に記録されている。道灌を謀殺したことで、定正に見限りをつける勢力もあり、扇谷家の勢力は減退したが、定正は凡庸な人物ではなかった。</p>
<h3>定正、関東三戦に勝利する</h3>
<p>道灌謀殺後、定正は関東管領家の山内上杉顕定と対立関係に入った。</p>
<p>不利な形勢の中で、軍事面では長享2年(1488年)の関東三戦(実蒔原の合戦、須賀谷原の合戦、高見原の合戦)を有利に進め、外交では第2代古河公方の足利政氏や政氏の庇護下にあった長尾景春、そして、伊豆を奪取した北条早雲を味方につけ、山内上杉顕定に対抗した。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦</h3>
<p>その後、徐々に勢力を北武蔵に伸ばした定正はついに明応3年(1494年)に荒川に到達し、渡河しようとした。なお、この作戦には定正の援軍として早雲も参戦している。<br> もしこの作戦が成功し、上野国の山内上杉氏を倒せば、山内上杉氏に代わって、扇谷上杉氏が関東の覇者になれる可能性が出てくる。</p>
<p>だが、ここで思いがけないことが起こったのである。定正が荒川渡河時に落馬して、頓死してしまった。扇谷上杉氏の当主になってから約20年もの間、関東の戦乱を生き抜き、道灌謀殺後の苦しい時期も何とか切り抜けてきた定正に一体何が起こったのか。それは残念ながら分からないが、荒川の存在とその流れが彼の落 命の一因となったことは確かだろう。</p>
<p>定正落命は、司馬遼太郎『新装版 箱根の坂(下)』 (講談社文庫)<img>、伊東潤『疾き雲のごとく』<img>の第2話「守護家の馬丁」で書かれている(司馬さんの本では赤浜を過ぎた荒川北岸で、伊東さんの本では荒川南岸で死亡したことになっている。詳しくは各書籍をご覧いただきたい)。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦失敗時の関連人物たち</h3>
<div> </div>
<h3>定正の死と扇谷上杉氏の衰退</h3>
<p>原因はどうあれ、定正が死去したことで、元々、勢力的に劣勢だった扇谷上杉氏は急速に衰退していく。結果からみると、やはり彼の存在が扇谷上杉氏を支えていたことが分かる。</p>
<h3>早雲を関東に引き入れた定正</h3>
<p>もう1つ、彼の果たした役割としては北条早雲を関東に引き入れたことである。<br> 定正の養子、扇谷上杉朝良の代に早雲は小田原を手に入れ、関東の西の入り口に地盤を得た。そして、最終的に、早雲は相模一国を手に入れるのである。<br> それから半世紀ほど後、早雲の孫、北条氏康が最終的に川越夜戦で扇谷上杉氏を滅ぼすことになる。短期的に正しい決断が、長期的に見ると必ずしも正しくないこともあるという一例だろう。</p>
<h3>再び、赤浜</h3>
<p>私は赤浜の渡しで大きな石の前に立っている。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 赤浜の渡河地点付近の写真。</em><br><em> 岩の背後にある道路は、関越自動車道。時代は違えど、同じようなところに幹線道路が通っている点が興味深い。</em>
</div>
<div> </div>
<p>5月初旬だったこともあり、ボカボカ陽気で眠くなるようなところだった。<br> 中世の名もなき人々、そして、著名な歴史人物(たとえば、元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府を倒すため軍を率いて鎌倉街道上道を南下した新田義貞)もこの辺りを渡ったことだろう。<br> そして、高見原から鎌倉街道の上道を北上してきた定正は、鎌倉街道上道の高地から赤浜の低地の風景を目にしたあと、この辺りで荒川を渡河しようとして落命したのかもしれない。</p>
<p>今は近くに橋がかかっているので、釣り人らしき人以外、誰も顧みないこの地は、かつて坂東武者たちの生死を懸けた歴史の舞台だったのである。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 鎌倉街道上道から赤浜をのぞむ。対岸が北岸の花園。</em><br><em> 写真右側の川が荒川。赤浜の渡河地点である赤浜の渡しは、写真右端辺りにあった。</em><br><em> 赤浜の北岸が花園である。</em><br><em> 荒川を奥に行くと(西に行くと)、鉢形城がある。さらに、西に行くと秩父に至る。</em>
</div>
<p><a><img></a></p>
<div>2010年5月1日撮影:<br> 上の写真を撮影した付近に立っていた標識。<br> この近辺では、このような標識がいくつか立っている。</div>
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荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

赤浜の渡し 上杉定正 埼玉県 大里郡

【鎌倉街道上道・赤浜より寄居方面を遠望】<p>鎌倉街道上道から赤浜をのぞむ。対岸が北岸の花園。<br> 写真右側の川が荒川。赤浜の渡河地点である赤浜の渡しは、写真右端辺りにあった。</p>
<p>荒川を奥に行くと(西に行くと)、鉢形城がある。さらに、西に行くと秩父に至る。</p>

鎌倉街道上道・赤浜より寄居方面を遠望

作成日:2014/6/26 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

鎌倉街道上道 赤浜の渡し

【三郎とハチー五十子陣ー】<p>その日はよく晴れて、大地が乾燥していた。3年前(2010年)の4月下旬のことだ。<br> 鉢形城を出て、荒川を渡ったあと、北上し、五十子陣に向かった。</p>
<h3>五十子陣</h3>
<p>15世紀の半ば、鎌倉公方は関東管領の上杉氏と争った結果、古河公方は鎌倉を落ち、古河に移って古河公方となった(享徳の乱 1454-1482)。つまり、鎌倉公方と補佐役の関東管領という室町体制が崩壊し、関東は戦国時代に突入した。<br> その後、関東管領の上杉と古河公方の両陣営は利根川を挟んで対峙した。その上杉方の陣地が五十子陣だった。<br> 現在、16時前である。もう暑くはなく、日の勢いは衰えてきている。そろそろ五十子陣に近づいているはずだ。<br> それにしても広い。視界を遮る遮蔽物がほとんどない。正面に赤城山、左手に榛名山が霞んで見える。ここは武蔵(埼玉)だが、すぐ北は上野(群馬)だ。この大陸的な雰囲気の中を自転車で進む。しかし、秩父山地はその位置をなかなか変えようとしない。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2010年4月撮影<br>利根川南岸から赤城山(右側)と榛名山(左側)がうっすら見える。<br>広い。。<br></em></p>
<h3>iPhone以前</h3>
<p>この頃はiPhoneを持っていなかった。ということは、GPSから位置情報が得られない。そのため、紙の地図だけが頼りである。いや、もう1つ方法がある。それは人に聞くことだ。<br> しかし、見渡しても人はそうそう歩いていない。同じ武蔵でも南武蔵とは人口密度が違う。</p>
<p>GPSが使えないなら、どうやって、現在地を推測するのか。<br> 自分は地形(ランドマーク)と太陽の位置で大体の位置を知り、それを紙の地図から得た町名番地で補正していた。<br> この方法はたいていの地域で機能する。しかし、北関東のように、町の区分が広すぎると、苦しくなってくる。あと、日が暮れると、地形も太陽の位置も分からない。必然的に、現在地は闇の中となる。</p>
<p>いずれにしても、iPhone以前は現在地がどこなのか知ることは困難だったため、行動は非効率だった。しかし、分からないがゆえに、遠方の知らない土地にゆく時は、大いに興奮した。</p>
<h3>小学校に人がいた</h3>
<p>五十子陣の近くにはいるはずだ。そう思って、ウロウロしていると、小学校があった。止まって、場所を確認する。が、どの小学校か分からない。ここは広い武蔵の最北端。<br> 小学校の金網沿いに、小学生が何人かいる。その左に、柴犬を連れたおじさん(40歳過ぎぐらい)が小学生たちに向かって歩いてきた。<br> 柴犬が小学生たちに吠える、吠える、とにかく吠える。吠えることしか知らないかのようだ。この際、名前を「ハチ」と名付けよう。<br> おじさんは「うるせえっ」とハチを一喝するが、ハチは全く意に介さない。</p>
<p>まあ、ハチはやかましいが、小学生に聞くよりも、おじさんに聞いた方が良かろうと思い、おじさんに話しかけた。<br> 「すいません、この辺に行きたいんですが。」<br> 五十子陣って、どこですか?とは聞かない。経験的に、余程有名な史跡でないと地元の人は知らないことが多い。五十子陣はマニアックだ。中世関東史において、重要な土地だったのにも関わらず。</p>
<p>おじさんは目を細めて、「えーと、いまは○○小学校だから。。。」と私の地図を見ている。その間も、もちろん、ハチは吠えている。<br> 「うるせえっ」とまた叱るが、効果なし。おじさんはしばし無言でハチを睨んで、怒気を発する。その刹那、後方に跳んだっ!</p>
<p>一瞬何が起こったか分からなかったが、明らかに飛び蹴りだった。<br> だが、ハチは素早い身のこなしで、難なくかわし、「ニヤリ」と笑った。そして、満足した様子で、吠えるのをやめ、行儀よくお座りしている。</p>
<p>飼い犬に飛び蹴りを放つ人を、自分は今まで見たことがない。しかも、その後、おじさんは何事もなかったように数歩で戻ってきて、<br> 「えー、小学校がここだからこっちだね」と北西の方向を指差した。</p>
<p>この野性的な出来事を前に、このおじさんは「三郎」に見えてきた。三郎とは『男衾三郎絵巻』の三郎、つまり、中世武蔵の荒武者の姿である。</p>
<p>三郎とハチは、こんなことを毎日繰り返しているのかもしれない。<br> 南武蔵では、犬は従順で、おとなしいペットである。飼い主も優しく、いきなり飛び蹴りを繰り出したりしない。</p>
<p>三郎に弓矢や槍刀を渡したら、さぞかし、勇敢に違いない。<br> また、いざ鎌倉という時には、ハチは三郎のために、決死の働きをするだろう。たぶん。</p>
<p>脳内で大鎧姿となった三郎殿に礼を述べ、私は北西にあるという五十子陣を目指して、自転車を漕ぎはじめた。</p>
<p>(終)</p>

三郎とハチー五十子陣ー

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

五十子陣 フィールドをゆく

【長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜】<h2>別の戦国時代をつくる可能性を持っていた男、長尾景春</h2>
<p>別の戦国時代を作る可能性を持っていた人物として、長尾景春がいる。一般には知られざるこの人物について、これから書いていきたい(*)。</p>
<p><em>(*)この記事の公開は2011年10月14日で、長尾景春が主役の歴史小説、伊東潤氏『叛鬼』はまだ出版されていなかった。伊東さんの著書によって、長尾景春はの知名度は以前よりも上がったと思う。</em></p>
<p>長尾景春は訳あって、主人の関東管領、山内上杉顕定を相手に謀反を起こし、主の顕定を窮地に陥れた。これが文明8年(1476年)からはじまる長尾景春の乱で、景春が30代前半の頃のことである。しかし、不運にも、彼の同時代には太田道灌がいた。</p>
<p>長尾景春は巧みな外交と調略を駆使して、戦略的優位を準備するものの、太田道灌との戦闘に敗れた。戦略的に勝っているからといって、自動的に最終的な勝利が得れれるというものではない。</p>
<p>長尾景春について述べる前に、同姓の越後守護代、長尾為景について見ていきたい。</p>
<h2>下克上を成功させた男、長尾為景</h2>
<p>永正4年(1507年)長尾為景は越後守護の上杉氏に下克上を起こして成功し、傀儡の越後守護を擁立することに成功した。そして、首尾よく傀儡越後守護も追放して、為景自身が越後の支配者となった。彼の息子の長尾景虎はその地盤を引き継ぎ、さらには、(北条早雲の孫、北条氏康に河越夜戦(1546年)で撃破され、その後、没落させられた)関東管領の山内上杉憲政から山内上杉氏の名と関東管領の職を受け継ぎ、「山内上杉」謙信となった。そして、謙信は武田信玄や北条氏康、織田信長といった戦国の雄たちと激しく争うことになる。</p>
<h2>「長尾景春の乱」の原因:景春、山内上杉氏の家宰職を継承できず</h2>
<p>社会的地位からいうと、長尾景春は越後守護代の長尾為景(上杉謙信の父)と似たところにいた。</p>
<p>長尾景春の祖父(白井長尾景仲)も父(白井長尾景信)も、主の山内上杉氏の家宰(執事)だった。文明5年(1473年)に、父の長尾景信が死去した。景春は、当然、自分がその地位を引き継げると思っていた。 <br>しかし、彼の家(白井長尾家)の勢力が主家を凌ぐのを恐れた若き当主、関東管領の山内上杉顕定が、景春の叔父を家宰に任命した(上杉顕定の懸念は、越後の長尾為景の例を見ても空想ではなかった)。 <br>景春にとって、この処置は認められるものではない。怒りなどの感情もあっただろうが、それより、家宰職には膨大な利権があり、家臣や同輩はそれを当てにしている。景春が利権を手放せば、人々は去っていき、景春の政治生命は致命的なダメージを受けることになる。 <br>景春は政治的な死を選んで隠遁するか、家宰職を認めさせるために主と戦うかの二者択一を迫られたのである。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年10月撮影 </em><br><em>白井城から榛名山をのぞむ。手前に流れる川が吾妻川。 </em><br><em>白井城は代々、山内上杉氏の家宰を務める白井長尾家の本拠地だった。当城は群馬県渋川市白井に位置する崖端城である。白井城の西側を吾妻川が東側を利根川が流れており、城の南側で合流しており、さらに三国街道がこの城の近くを通るため、上野と越後の交通の要衝でもある。 </em><br><em>かつての城域の大部分は、現在、畑だが、一曲輪を中心に遺構も残っている。</em>
</div>
<h2>景春、挙兵</h2>
<p>景春は関東の有力国人を多数味方につける一方、文明8年(1476年)頃、<a>鉢形城</a>を築城して拠点とした。また、当時、享徳の乱が継続中で、主家の山内上杉氏と古河公方は対立しており、主家と敵対している古河公方、足利成氏を味方につけ、着々と軍事的、外交的な策を駆使して、蜂起のときを待った。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年4月25日撮影 </em><br><em>鉢形城の北側からのアングル。写真中央の川が荒川。城の堅固さが偲ばれる。遺構の良好に残り、北条氏末期の鉢形城の様子がよく分かる。 </em><br><em>長尾景春が太田道灌(両上杉氏)との戦いに敗れ、この城を追われたあと、この城は山内上杉氏の武蔵支配の拠点となった。16世紀の半ばに、後北条氏が山内上杉氏に代わって、この地を支配するようになっても、鉢形城は重要拠点でありつづけた。景春の築城眼は的を得ていたようだ。</em>
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<p><a><img></a></p>
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<em>長尾景春の乱、概略絵地図 </em><br><em>当時の関東は、利根川を境に東が古河公方の勢力圏、西が両上杉氏の勢力圏だった(なお、当時の利根川の流路は現在と違い、関東を東西に分けていた)。古河公方勢と対戦中だった両上杉の前線拠点、五十子陣は背後から長尾景春に攻撃され、崩壊した。</em>
</div>
<h2>景春の、そして、関東の運命を握る男、太田道灌</h2>
<p>景春にとって、最大の脅威は江戸を中心に勢力を持っている太田道灌だった。道灌は文武両道の名将で、足軽を組織して、強力な軍事力を養う一方、関東の大河の下流を押さえる江戸に堅固な江戸城を築き、大きな経済力も持っていた(道灌はその強力さ故に、10年後、道灌の主人、扇谷上杉定正に謀殺されることになる)。</p>
<p>ただ、道灌は主の扇谷上杉定正や定正の同盟者である山内上杉顕定との関係がうまくいっておらず、彼らの間に溝が広がりつつあった。景春にとって、道灌は敵にまわすと最大の脅威なので、この隙をついて、道灌を味方につけるか、それが無理ならせめて中立を維持させる必要があった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年2月撮影</em><br><em>江戸城に残る3つの櫓の1つ、富士見櫓。かつて太田道灌が築いた静勝軒の故地に江戸城の富士見櫓が建っているという。 静勝軒は道灌の軒号でもある。</em>
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<div> </div>
<h2>景春、初戦に勝利。</h2>
<p>景春は道灌と両上杉首脳の不仲を好機として蜂起した。景春の基本戦略は五十子陣にいる両上杉首脳と道灌の連携を分断し、道灌を足止めする一方、両上杉の軍勢に打撃を与え、機を見て、主の山内上杉顕定と和睦し、政治目標を実現するというものだったと思う。家宰職を得ることが景春の政治的な目標なら、この戦略は的を得ているだろう。</p>
<p>初戦は上々で、文明9年(1477年)1月に主の顕定と扇谷上杉定正のいる五十子陣を襲って崩壊させた。顕定と定正は何とか利根川の北に逃げ延びた。これが「長尾景春の乱」の最初の戦いだった(この戦いは4年に及んだ)。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年4月撮影 </em><br><em>両上杉氏が古河公方との戦いのために築いた五十子陣跡。近辺は茫漠たる平野が広がる。 その重要な拠点を景春は崩壊させた。そのため、両上杉首脳は窮地に陥るが、太田道灌の活躍によって何とか生き延びた。</em>
</div>
<h2>道灌、動く</h2>
<p>景春は山内上杉顕定との和睦の取次ぎを期待して、道灌に使者を送った。景春の政治的目標は山内上杉氏の家宰職の継承だったのだと思う。そうでなければ、顕定勢の撃滅を目指していたはずだ。 <br>景春の意図はどうであれ、結局、道灌による和睦斡旋は失敗した。すると、道灌は景春を討つべく、江戸城から北上してきた。</p>
<p>道灌は江戸城と河越城の連絡線を遮断している練馬城・石神井城の豊島氏を江古田・沼袋の戦いで撃破した。この戦いによる勝利で江戸城・河越城のラインを確保した道灌はさらに北上を続けた。 <br>景春は当時五十子陣にいた。道灌は、景春の拠点、鉢形城と五十子陣の間で陣を構えることで、景春の補給ラインを分断した。景春は補給ラインを確保すべく南下したが、これは道灌の「手」だった。</p>
<p>道灌は景春をおびき寄せて合戦に持ちこんだ(用土原・針谷の戦い)。景春は道灌の術中にはまり、敗れた。その後も、道灌は景春勢を各地で撃破して、景春を秩父の奥地に追い込んでいった。そして、文明12年(1480年)、景春最後の拠点、秩父の日野要害(熊倉城)も道灌に攻略され、景春は没落した。</p>
<p>なお、景春は道灌の妻の甥にあたり、お互いよく知った仲であったと言われている。</p>
<h2>景春の実現されなかった可能性を考える</h2>
<p>長尾景春は長尾景春の乱に敗れたが、その後も神出鬼没の活躍で、主の山内上杉顕定を苦しめた。やはり、只者ではなかったことが分かる。しかし、これらの活躍もあくまでも好機に便乗するという形であって、景春が再び時代の主役になることはなかった。</p>
<p>ここで、少々、「もし」を考えてみたい。 <br>もしこの時道灌が江戸城を動かなかったり、さらに言うと、道灌が景春に協力していたら、古河公方との戦いにも直面していた両上杉氏(山内上杉氏と扇谷上杉氏)は二方向、道灌も含めれば、三方向から挟撃され、一時的であれ、両上杉氏主力が壊滅していた可能性はかなりあったと思う。</p>
<p>当時、長尾為景の下克上はまだ起こっておらず、山内上杉氏は越後上杉氏の援軍を期待できたため、山内上杉氏がたやすく滅亡したかどうかは疑問ではあるものの(また、京都では弱体ながら室町幕府は存在していた。幕府は基本的に親上杉なので、近隣諸国からも両上杉氏に援軍が来ていた可能性もある)、一方では景春か道灌が古河公方を担いで関東を統一し、彼らの子供あたりが源頼朝のように関東の強兵を率いて京に攻め上り、天下に号令していた可能性もゼロではない(実際、永正5年(1508年)、大内義興は前将軍の足利義稙を擁して上京し、10年間、自派の政権を維持した)。</p>
<p>実際には、このシナリオ(景春と道灌が同盟し、両上杉氏を倒すシナリオ)は実現されなかったわけだが、もし実現していたら、その後の展開は全く変わっていただろう。 <br>状況は違うが、後に景春や古河公方と同盟して、両上杉氏と対抗した人物がいる。そう、それが北条早雲である。もしこの時(景春が蜂起したとき)に早雲が道灌の立場であれば、どういう判断を下していただろうか。</p>
<h2>長尾景春と長尾為景</h2>
<p>結局、失敗した長尾景春の乱だったが、景春は優れた戦略家であり、実行力もあった。ただ、相手(太田道灌)が悪かったと言えるかもしれない。</p>
<p>長尾景春の乱から、約30年後、越後で長尾為景が越後上杉氏を倒して、下克上に成功した。 長尾景春はある意味、長尾為景になり損なった男ということもできると思う。</p>
<h2>年表: 長尾景春の乱</h2>
<div> </div>
<p>(終)</p>

長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜

作成日:2014/6/22 , by fuji3zpg 開く

長尾景春の乱 フィールドをゆく 太田道灌 室町体制崩壊期の関東と太田道灌ーフィールドをゆく(2)ー

【鉢形城】荒川北岸から鉢形城をパノラマ撮影。

作成日:2013/3/29 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

埼玉県 大里郡

【鉢形城】せっかく、車山に登ったのにロクな写真が撮れず。。車山の斜面が急すぎて、手綱まで備えてありました。<br>あの急斜面をワッセワッセと大砲を運んで、鉢形城に砲弾を撃ち込んだと思うと、なかなか感慨深いものがあります。

作成日:2013/1/15 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

冬の鉢形城 埼玉県 大里郡

【鉢形城】復原石積土塁の上から撮影。手前が三の曲輪、木柵の向こうが二の曲輪

作成日:2013/1/15 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

冬の鉢形城 埼玉県 大里郡

【鉢形城】復原四脚門

作成日:2013/1/15 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

冬の鉢形城 埼玉県 大里郡

【鉢形城】小田原戦役の際、豊臣軍が鉢形城に向けて、大砲を撃ったという車山。鉢形城歴史館で見た大砲の弾は、想像していたよりもかなり小さかった。

作成日:2013/1/15 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

埼玉県 大里郡

ノート【更新順】
岡山県の没落武士
江戸東京たてもの園を訪問
コルク社主催の伊東潤氏の第3回読者会に参加
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ノートまとめ【更新順】
関ヶ原の戦いの動画
淀川の城
姫路城大天守の昼・夕暮れ・ライトアップ!
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歴史年表【更新順】
『おんな城主 直虎』年表
花燃ゆ第2回「波乱の恋文」
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新型コロナウィルス感染拡大に伴い、東京など7都道府県で非常事態宣言が発令
中国の武漢で新型コロナウィルスが人に感染
令和に改元決定
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世界史古代概論
世界史古代概略
ローマと前漢、不思議な成立の符合
古代の日本と西欧
戦国のはじまり
早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-
応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-
その他
2015年NHK大河「花燃ゆ」の関連情報
歴史系テレビ番組まとめ(2014年5月版)
大坂の陣で奮戦した毛利勝永の記事
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