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真田幸隆

1513年 〜 1574年

人物 日本

韮山城の本丸から守山をのぞむ。<br>    守山は写真中央奥の濃い緑の丘陵。守山の背後(西)には狩野川が北流し、手前(東)には下田街道が通っている。<br><br>    この付近は、平安末期、鎌倉北条氏の地盤であり、北条時政が開基の願成就院が盛衰を重ねながら、現在も建っている。守山の前、韮山城寄りに、小規模な林があるが、ここが源頼朝が流された蛭ヶ小島といわれている。頼朝は、北条時政の娘、北条政子を妻とし、北条勢を味方につけた。1180年、以仁王の令旨に呼応して挙兵し、韮山城の東側の山木判官邸を襲って、勝利した。つまり、韮山は、中世の武家政権、鎌倉幕府成立の揺籃の地なのである。<br><br>    室町時代の1493年、北条早雲(伊勢宗瑞)が伊豆討ち入ったが、堀越公方の足利茶々丸がいた堀越御所が守山の麓の願成就院にあった。もし約500年前のその時にここから眺めていたら、早雲の軍勢が守山の堀越御所を襲ったのが見えたかもしれない。<br>    かつては、この時が戦国の始まりとされていた。<br><br>    早雲が茶々丸を堀越御所から逐った後、韮山城を本拠地とした。後北条氏の本拠地が小田原に移ったのは、後北条氏2代の北条氏綱からで、早雲は生涯、韮山城が居城だった。ということは、早雲はかつてこの辺を日常的に歩き、ここから同じように韮山の地を眺めていたかもしれない。早雲亡き後も、韮山城は北条氏の伊豆支配の中心地として機能した。<br><br>    早雲の伊豆討ち入りから約100年後の天正18年(1590年)、豊臣秀吉による関東侵攻がはじまった。韮山城では、豊臣秀吉の4万4千余の大軍を相手に、後北条氏4代北条氏政の弟、北条氏規が3600の兵で3ヶ月間持ちこたえたという。しかし、北条方の有力な支城郡が落城し、後北条氏にとって絶望的な状況となったため、説得に応じて開城した。<br>    その豊臣政権も、秀吉の死後、関ヶ原の戦いと大阪の陣を経て、滅亡し、日本は徳川幕府による近世を迎える。<br><br>    このように、韮山は、東海道から奥まった土地であるにも関わらず、中世という時代の大舞台となった不思議な土地なのである。

北条氏規

1545年 〜 1600年

人物 日本

今川義忠

1436年 〜 1476年

人物 日本

上杉持朝

1416年 〜 1467年

扇谷上杉氏の当主。太田道灌の父、道真の補佐を得て、持朝の代で、扇谷家の勢力を大いに伸長させた。

人物 日本

仲恭天皇

1218年 〜 1234年

人物 日本

順徳天皇(上皇)

1197年 〜 1242年

人物 日本

北条時房

1175年 〜 1240年

人物 日本

上杉弾正屋敷跡。<br><br>1252年、宗尊親王(後嵯峨天皇の皇子)が鎌倉幕府の将軍として下向する際、上杉重房はそのお供として従った。その功として、上杉荘(京都府綾部市上杉町辺り)を賜り、上杉氏を称した。<br><br>「弾正屋敷跡」の標柱が中央に見える。左上の鳥居をくぐると、上杉天満宮がある。<br><br>室町時代に関東管領となる上杉氏はここから始まる。<br>上杉謙信の「上杉」はここの地名「上杉」から来ている。

宗尊親王

1242年 〜 1274年

人物 日本

【鎌倉城】源頼朝の墓所があった法華堂跡。<br>      鎌倉入りした源頼朝が幕府を設置した大倉は、法華堂の南側平野部にあった。<br><br>      宝治合戦の折りには、三浦泰村ら三浦一族郎党500名余がこの地で自害したと伝えられている。

三浦泰村

? 〜 1247年

人物 日本

藤原頼嗣

1239年 〜 1256年

人物 日本

藤原頼経

1218年 〜 1256年

人物 日本

公暁

1200年 〜 1219年

人物 日本

源実朝

1192年 〜 1219年

人物 日本

三善康信

1140年 〜 1221年

人物 日本

大江広元

1148年 〜 1225年

人物 日本

平宗盛

1147年 〜 1185年

人物 日本

上総介広常

? 〜 1183年

人物 日本

千葉常胤

1118年 〜 1201年

人物 日本

武田信義

1128年 〜 1186年

人物 日本

韮山城の本丸から守山をのぞむ。<br>    守山は写真中央奥の濃い緑の丘陵。守山の背後(西)には狩野川が北流し、手前(東)には下田街道が通っている。<br><br>    この付近は、平安末期、鎌倉北条氏の地盤であり、北条時政が開基の願成就院が盛衰を重ねながら、現在も建っている。守山の前、韮山城寄りに、小規模な林があるが、ここが源頼朝が流された蛭ヶ小島といわれている。頼朝は、北条時政の娘、北条政子を妻とし、北条勢を味方につけた。1180年、以仁王の令旨に呼応して挙兵し、韮山城の東側の山木判官邸を襲って、勝利した。つまり、韮山は、中世の武家政権、鎌倉幕府成立の揺籃の地なのである。<br><br>    室町時代の1493年、北条早雲(伊勢宗瑞)が伊豆討ち入ったが、堀越公方の足利茶々丸がいた堀越御所が守山の麓の願成就院にあった。もし約500年前のその時にここから眺めていたら、早雲の軍勢が守山の堀越御所を襲ったのが見えたかもしれない。<br>    かつては、この時が戦国の始まりとされていた。<br><br>    早雲が茶々丸を堀越御所から逐った後、韮山城を本拠地とした。後北条氏の本拠地が小田原に移ったのは、後北条氏2代の北条氏綱からで、早雲は生涯、韮山城が居城だった。ということは、早雲はかつてこの辺を日常的に歩き、ここから同じように韮山の地を眺めていたかもしれない。早雲亡き後も、韮山城は北条氏の伊豆支配の中心地として機能した。<br><br>    早雲の伊豆討ち入りから約100年後の天正18年(1590年)、豊臣秀吉による関東侵攻がはじまった。韮山城では、豊臣秀吉の4万4千余の大軍を相手に、後北条氏4代北条氏政の弟、北条氏規が3600の兵で3ヶ月間持ちこたえたという。しかし、北条方の有力な支城郡が落城し、後北条氏にとって絶望的な状況となったため、説得に応じて開城した。<br>    その豊臣政権も、秀吉の死後、関ヶ原の戦いと大阪の陣を経て、滅亡し、日本は徳川幕府による近世を迎える。<br><br>    このように、韮山は、東海道から奥まった土地であるにも関わらず、中世という時代の大舞台となった不思議な土地なのである。

以仁王

1151年 〜 1180年

人物 日本

【大垣城天守】大垣城は、関ヶ原の戦いの直前まで石田三成が入り、美濃の西軍拠点として利用された。
ここに石田三成、島左近、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘らがいたわけで、毎度ながら、何となく不思議な気分になるのでした。

現在、天守内部は資料館になっている。
最上階が室内展望台になっていて、四方を見渡せる。

西行

1118年 〜 1190年

人物 日本

藤原成親

1138年 〜 1177年

人物 日本

安徳天皇

1178年 〜 1185年

人物 日本

平重盛

1138年 〜 1179年

人物 日本

ノート【更新順】
岡山県の没落武士
江戸東京たてもの園を訪問
コルク社主催の伊東潤氏の第3回読者会に参加
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ノートまとめ【更新順】
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花燃ゆ第2回「波乱の恋文」
歴史家・歴史小説家とその時代
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中国の武漢で新型コロナウィルスが人に感染
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世界史古代概論
世界史古代概略
ローマと前漢、不思議な成立の符合
古代の日本と西欧
戦国のはじまり
早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-
応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-
その他
2015年NHK大河「花燃ゆ」の関連情報
歴史系テレビ番組まとめ(2014年5月版)
大坂の陣で奮戦した毛利勝永の記事
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