韮山城の本丸から守山をのぞむ。
守山は写真中央奥の濃い緑の丘陵。守山の背後(西)には狩野川が北流し、手前(東)には下田街道が通っている。
この付近は、平安末期、鎌倉北条氏の地盤であり、北条時政が開基の願成就院が盛衰を重ねながら、現在も建っている。守山の前、韮山城寄りに、小規模な林があるが、ここが源頼朝が流された蛭ヶ小島といわれている。頼朝は、北条時政の娘、北条政子を妻とし、北条勢を味方につけた。1180年、以仁王の令旨に呼応して挙兵し、韮山城の東側の山木判官邸を襲って、勝利した。つまり、韮山は、中世の武家政権、鎌倉幕府成立の揺籃の地なのである。
室町時代の1493年、北条早雲(伊勢宗瑞)が伊豆討ち入ったが、堀越公方の足利茶々丸がいた堀越御所が守山の麓の願成就院にあった。もし約500年前のその時にここから眺めていたら、早雲の軍勢が守山の堀越御所を襲ったのが見えたかもしれない。
かつては、この時が戦国の始まりとされていた。
早雲が茶々丸を堀越御所から逐った後、韮山城を本拠地とした。後北条氏の本拠地が小田原に移ったのは、後北条氏2代の北条氏綱からで、早雲は生涯、韮山城が居城だった。ということは、早雲はかつてこの辺を日常的に歩き、ここから同じように韮山の地を眺めていたかもしれない。早雲亡き後も、韮山城は北条氏の伊豆支配の中心地として機能した。
早雲の伊豆討ち入りから約100年後の天正18年(1590年)、豊臣秀吉による関東侵攻がはじまった。韮山城では、豊臣秀吉の4万4千余の大軍を相手に、後北条氏4代北条氏政の弟、北条氏規が3600の兵で3ヶ月間持ちこたえたという。しかし、北条方の有力な支城郡が落城し、後北条氏にとって絶望的な状況となったため、説得に応じて開城した。
その豊臣政権も、秀吉の死後、関ヶ原の戦いと大阪の陣を経て、滅亡し、日本は徳川幕府による近世を迎える。
このように、韮山は、東海道から奥まった土地であるにも関わらず、中世という時代の大舞台となった不思議な土地なのである。
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