西暦: ? 〜 1582年

地域: 日本

快川紹喜

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グラフ: 「快川紹喜」と同時代の人物

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グラフ: 「快川紹喜」と同時代の出来事

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「快川紹喜」の関連ノート

【その2 信虎初陣ー武田信虎の戦いー】<h2>武蔵から郡内、そして、甲府盆地へ</h2>
<p>この日、朝8時半頃に自宅を出て、調布駅で京王線に乗り、調布から高尾まで生き、高尾からJR中央線に乗り換えて、甲斐の郡内を通り、甲府盆地へ入った。</p>
<h3>意外に広い</h3>
<p>甲府盆地へ入ってまず気づいたのは、甲府盆地は意外に広いということだった。 <br>「甲斐は山国」と何度も読んでいたので、山が迫って、圧迫感があるのかと思っていた。山に囲まれているのは事実だが、圧迫感はない。南北はそれほど広くはないが、東西は広く、南アルプスの山並みが霞んでいる。</p>
<h3>甲府盆地の北東、塩山駅からスタート</h3>
<p>甲府盆地の北東にある塩山駅で降り、いつものようにブロンプトン(折りたたみ自転車)を組み立てて、歴史サイクリングをスタートした。時間は午前11時頃だった。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>甲府盆地の北東の塩山駅からスタート。 ブロンプトンを組み立てて、駅前を歩いていたら、仲良し3人組という風のタクシードライバーのおじさんに声をかけられ、またしてもブロンプトンについて熱く語ってしまった。 </em><br><em>調布駅でも声をかけられ、ブロンプトンについて語ること、この日、早くも2回目。</em>
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<em>今回の話で出てくる地名と地形の絵地図。 </em><br><em>さすがにひどいか。。。</em>
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<h3>恵林寺</h3>
<p>最初の目的地は、恵林寺である。 <br>恵林寺は信玄の本を読んでいた時によく出てきていたので、いつか行ってみたいと思っていた。幸い、塩山駅から2kmほどのところなので、行ってみることにした。 <br>分かってはいたが、上り坂である。自転車にダラダラと続く上り坂はきつい。しかも、この日は日差しが強く、恵林寺に着いた頃には汗だくになっていた。</p>
<p>恵林寺は武田家滅亡の時、織田信長に焼かれた。恵林寺の住持、快川紹喜が「心頭滅却すれば火もまた涼し」と唱えて、火定したことは有名である。恵林寺の武田不動尊も有名で、信玄をモデルに作られたといわれている。<br> 私はこの像をいつか見てみたいと思っていた。 <br>13時頃、恵林寺をあとにした。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>2011年9月撮影: <br>恵林寺山門 <br>快川紹喜が「心頭滅却すれば火もまた涼し」と唱えて、火定した場所に建てられたという。 なお、恵林寺はこのシリーズの中でもう1度出てくる。</div>
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<h3>気づいたこと</h3>
<p>ここからは下りである。 <br>甲府盆地は北が高く南が低い。私はいま東北にいる。ちょうど笛吹川と並行する形で、石和に向かって、風を切って下った。</p>
<p>走りはじめて、気づいたことがある。まず、人が少ない。歩いている人はほとんどいない。東京の江東区から調布に引っ越した時に、人が少なく感じだが、その比ではない。本当に人を見ない。その代わり、ブドウ畑などの果樹園がひたすら続く。まるで、住宅地と山以外はすべて果樹園のようだ。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>所狭しと広がるブドウ畑。 </em><br><em>肥料が置いているところにリアリティを感じる。</em>
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<p>もう1つある。それは豊富な水量と水流である。 <br>他の街でも家々の側溝を小川のせせらぎという感じと水が流れていることがあるが、この辺は側溝に水がガンガン流れている感じである。大雨が降って、側溝に人が流されて死亡したというニュースをたまに目にするが、どういう状況なのかイメージできず、今まで信じられなかった。しかし、急流の側溝を見て「ありうる話だ」と納得した。 <br>何せ高い山が近くにあり、かなりの傾斜があるため、このような急流になるようだ。これでは台風のような大雨が降ったらどうなるのやら、恐ろしい話だ。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>恵林寺から石和に向かう時に渡った橋から撮った笛吹川(山梨市七日市場付近) 白波が立って、急流であることが分かる。 </em><br><em>前日に雨が降ったわけでもないのにこの水量。</em>
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<h3>甲斐守護の館があった石和</h3>
<p>信虎が1519年に躑躅ヶ崎館に移すまで、石和の川田館が甲斐守護の拠点だった。 <br>父、武田信縄の死後、少年信虎も甲斐守護として、石和の川田館の主となった。いわば、石和の川田館は信虎にとって政治的人生の出発点だった。ということなので、まずは石和に行くことにした。</p>
<h3>あの木は何ですか?</h3>
<p>ところで、サンクリング中、私はブドウ畑と同じくらいの割合で存在する畑(木)が何なのか気になってきた。だが、人がいないので聞けない。</p>
<p>石和温泉駅に近くにきた。進行方向の右側30mほどのところに小さなネギ畑がある。その畑でネギにひしゃくで水をまいている中年の女性がいる。その女性に木の正体について、聞いてみることにした。</p>
<p>「すいません」<br> 「こんにちは。」ネギの女性は笑顔で応える。気持ちのいい笑顔だ。 <br>「ちょっと教えてほしんですが、あの木は何ですか?」私は近くにある畑にある謎の木を指して尋ねた。 <br>「どれ?」分からないらしい。 <br>「あれです、あの畑の木です。ちょっと栗っぽい木です」 <br>「ああ、あれは桃の木よ」至極、当然のようにいう。<br> 「ああ、そうなんですか」何と30も半ばになろうというのに、私は桃の木を知らなかった。桃の木を知らないという人間がいること自体が想定外で、どの木のことを聞いているのか、この女性は分からなかったようだ。 <br>もし桃がなっていれば、むろん、桃の木だと分かっただろうが、桃のシーズンはとっくに終わっている。</p>
<p>ということは、ブドウ畑と二分する謎の畑は桃畑ということになる。 <br>なぞが解けて、スッキリした。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>謎の木。。。 </em><br><em>この辺の子供なら、3歳児でも知っていそう。</em>
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<p>「ブドウはほとんどなっていませんね」 <br>「まあ、お盆の頃だからね。けど、緑のブドウなんかはこれからよ」 <br>「なるほど、品種が違うんですね」 <br>「そう。それに石和は温泉が出るでしょ。温暖な土地だから、できるのが早いのよ。塩山なんかはここより少し遅れるし、八代(甲府盆地の南部)なんかの巨峰はこれからよ。地域によって、見事に出来る時期が違うのよね」 <br>「へえー、そうなんですか」私は驚いた。というのは、塩山も八代もここから見える。なのに、これほど収穫時期が違うのである。 <br>「すごく驚いてるね」私の驚き方が面白いのか、ネギの女性は朗らかに笑っている。</p>
<p>他にもいろいろ話を聞いたのち、 <br>「お仕事中、すみませんでした」 <br>「はーい、がんばってねー」 <br>「ありがとうございまーす」 <br>ということで、私はネギ畑をあとにした。</p>
<h3>信虎、叔父の油川信恵と戦う</h3>
<p>笑顔が素敵なネギの女性と別れた後、10分ぐらい走ると、川田館跡に着いた。 <br>川田館跡の看板がブドウ畑の中に立っている。ここにかつて甲斐守護の館があったと想像できるものはない。しかし、かつてはここを中心に城下町に近い街並みがあったはずだ。そして、信虎の甲斐守護としての人生はここからはじまった。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>川田館跡は平等川の左岸にある。 </em><br><em>ブドウ畑の中に、川田館跡の案内板が立っている。この案内板がなければ、川田館跡だとは誰も気付かないだろう。</em><br><em> 川田館に信虎がいたのは1519年なので、1521年生まれの信玄はここで生活したことはないはずだ。</em>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>川田館跡の横で撮影したブロンプトン。だからといって、特別な意味は何も無い。 </em><br><em>前のバッグに、この歴史サイクリングで使う全ての荷物が入っている。 </em><br><em>2泊3日で自転車で130kmほど走った。乗り心地もよく、折りたためるので最高。</em>
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<p>さて、信虎の父、信縄が1507年に死去したところまで述べた。 <br>当主の交代時というのは元々動揺しやすいので、敵対勢力にとっては狙い目ではあるが、特に次の当主が若年である場合は尚更だ。当然、叔父の油川信恵は反意を露わにしはじめる。 <br>信虎は若年の当主である。普通ならここで叔父に討ち滅ぼされるのだろうが、翌年、逆に信虎は叔父、信恵の居城、曽根の勝山城にを攻めて込んで、滅ぼしてしまった。この重要な局面で初陣を勝利で飾った信虎を、信虎の支持者たちも頼もしく思ったことだろう。 <br>これで武田家内部の争いは終わった。しかし、この戦いは信虎にとって、甲斐統一の第一歩に過ぎなかった。</p>
<h3>曽根の勝山城</h3>
<p>油川信恵の居城、曽根の勝山城は甲府盆地の南部、笛吹川の南側にある。</p>
<p>石和の川田館跡を出発し、笛吹川沿い(南西)に走ること1時間ほどで、曽根にやってきた。石和と違って、この辺は稲作もしている。笛吹川の治水に成功して、用水路が整備されたことで、稲作が可能になったのだと思う。信虎の頃、この辺は洪水多発地帯だったようだ。</p>
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<em>勝山城から1kmほど上流の境川付近。 </em><br><em>稲作が行われている。石和付近の果樹園尽くしとは風景が異なる。</em>
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<p>さて、パッと見て、目立つ丘陵がいくつかある。そのうちの1つが勝山城だろうと思った。なお、郡内(山梨県東部の山岳地帯)にも勝山城がある。その城と区別するため、「曽根の」という頭文字がついている。 勝山城と思しき丘陵に近づいたが、それらしい看板などはない。 しかし、私はiPhoneを持っているため、ここが勝山城であることは分かっている。城の南側に回ると、果樹園になっており、丘陵への入り口がある。案内板がないため、果樹園に入っていいものか躊躇いながらもブロンプトンを押しつつ入っていった。 すると、勝山城の石碑を発見! やっぱりここだったかのか。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曽根の勝山城。勝山城は甲斐と駿河を結ぶ中道往還を押さえる要衝の地にある。近くには笛吹川の氾濫原が広がり、沼田に囲まれていたようだ。 </em><br><em>なお、石碑には「沼田めぐり 攻めるにたかし 勝山城」と書いてある。</em>
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<p>城跡の北端に立つと、石和方面がよく見える。 川田館の信虎にとってはいい気分ではなかったと思う。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曽根の勝山城から川田館があった石和方面がよく見える。 </em><br><em>実際に勝山城を見た歩いたら、意外と小さかった。それに丘陵といっても、それほど高いわけではない。この城は戦国末期まで使われたので、もうちょっといろいろと遺構も残っているかと思っていたが、期待していた程ではなかった。 「これが曲輪で、これが虎口で」と言われれば、「なるほど」と思うだろうが、単なる丘陵上の果樹園だと思えば、単なる果樹園にしか見えない。 </em><br><em>しかし、眺めはよく、ここに中道往還の押さえる位置からも、勝山城が重要な城であったのは頷ける。 </em><br><em>なお、この後も今川勢がこの城を用いて、信虎を苦しめることになる。</em>
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<p>かつて、この辺りは沼田であったという。甲冑に身をかためた15歳の信虎は500年ほど前の永正5年(1508年)10月4日、この勝山城付近で油川信恵勢と合戦におよび、決定的な勝利を収めた(勝山合戦)。<br> 少年信虎は一癖も二癖もある屈強な重臣たちに補佐されて戦ったのだろう。この戦いで叔父の油川信恵が戦死している。もし立場が逆だったら、この日に信虎の人生は終わっていたことになる。当時としてはありふれた話だろうが、厳しい話には違いない。 <br>実際にどういう戦いだったかは分からないが、今の勝山城は平和な果樹園であり、歴史を知らない人がここを訪れても城跡だとは気づくことはないだろう。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曽根の勝山城、遠景。結構良いアングルだった。</em>
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<h3>ホテルへ</h3>
<p>勝山城跡を降りてくると、16時になっていた。ホテルは甲府盆地の真ん中やや西側の国母近くにあるので、ここから自転車で40分ぐらいかかりそうだ。いい時間である。私はホテルに向かった。</p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>
<h3>資料: 武田信虎の年表</h3>
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その2 信虎初陣ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

武田信虎 恵林寺 川田館跡 曽根勝山城 山梨県 甲府市

【恵林寺山門】<p>恵林寺は武田家滅亡の時、織田信長に焼かれた。恵林寺の住持、快川紹喜が「心頭滅却すれば火もまた涼し」と唱えて、火定したことは有名である。</p>
<p>山門はその場所に建てられたという。</p>

恵林寺山門

作成日:2014/6/25 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

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