院政始まる
907年に唐が滅亡し、日本でも律令体制が危機に瀕していました。京都の朝廷では、白河上皇が院政をはじめ、律令体制では対応できない状況に即応しようとしましたが、世の乱れはおさまらず、徐々に在地領主が武装し、武士となり、台頭してきました。
決着はいくさで決める時代へ
そんな中、保元の乱、平治の乱が起き、ついに争いは政治を離れ、軍事で決することとなりました。
平清盛は西国の武士をまとめ、保元の乱、平治の乱を勝ち抜き、太政大臣にまで登りつめました。しかし、以仁王と源頼政の挙兵が大乱の呼び水となり、以仁王の令旨を根拠として、源氏の生き残りが挙兵し始めました。
源頼朝、平氏を滅ぼし、本拠地を鎌倉に移す
源頼朝は伊豆で挙兵し、一旦は敗れたものの、房総半島で勢力を回復し、東国武士をまとめて、新たな政権を作りはじめました。
頼朝は、弟の源義経らを平氏打倒のため派遣し、一の谷の戦い、屋島の戦いで平氏の軍勢を撃破、壇ノ浦で平氏を滅ぼしました。その後、頼朝は奥州藤原氏も滅ぼし、その勢力を全国に広めていきました。
そして、1192年、頼朝は征夷大将軍となり、名実ともに鎌倉幕府が成立しました。
(つづく)