拡大するモンゴル帝国
さて、モンゴル帝国拡大の余波を見てみましょう。
モンゴルの波は、ユーラシア大陸の西(ワールシュタットの戦い)と東(元寇)の端にも到達しました。
ユーラシア大陸の西とは西欧、もしくはヨーロッパのことで、東とは日本のことです。
モンゴル軍、東欧でドイツ・ポーランド連合軍を撃破
ワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランド連合軍を破ったモンゴル帝国はその勢いで、西欧を蹂躙するかと思われました。
しかし、ワールシュタットの戦いの翌年、モンゴル帝国2代目のオゴタイ・ハーンが死去し、モンゴル帝国のヨーロッパ遠征は中止され、西欧は難を逃れました。この時、オゴタイ・ハーンがあと数年年生きていれば、西欧はモンゴル帝国の植民地になり、歴史が変わっていた可能性があります。
朝鮮半島情勢の変化
ユーラシア大陸の東端では朝鮮半島の高麗がモンゴル帝国に抵抗していましたが、13世紀の中頃に降伏しました。この頃、モンゴル帝国は長江以北を支配し(長江以南は南宋が踏ん張っていました)、フビライ・ハーンは元を建国しました。
元・高麗連合軍、日本を攻撃
そして、1274年と1284年に元・高麗連合軍が北九州に攻めて来ました。主戦場は博多でした。鎌倉幕府の執権、北条時宗は御家人を組織して、防戦に努めました。そして、防戦している間に暴風雨が起きて、元・高麗連合軍の船舶は大打撃を受けて、敗退しました(1284年の弘安の役)。
ベトナムでも戦争が
なお、同じ頃、元軍はベトナムには攻め込んでいますが、ベトナムはよく戦い、これを撃退しています。他にも、モンゴル帝国は世界各地で戦っており、「世界大戦」と言える規模だったのではないかと思います。
(つづく)