壬申の乱
国内では、天智天皇の死後、大友皇子(天智天皇の子)と大海人皇子(天智天皇の弟)が皇位継承をめぐって戦いました(壬申の乱、672年)。
天武天皇の即位と制度の整備
結果は大海人皇子の勝利に終わり、大海人皇子は天武天皇として即位しました。天武天皇は引き続き、律令的な中央集権国家を目指して、改革を行いました。
大宝律令の制定と律令体制の成立
そして、藤原不比等らの尽力により、701年に大宝律令が制定され、律令制度がほぼ整い、日本の古代国家の原型ができました。
藤原氏の台頭と"平安"時代
このあと、国内の権力争いによる政変は多々あったものの、国内の大規模な戦乱はなく、比較的に安定した状態が10世紀頃まで続きました。
この期間に台頭したのが藤原氏で、天皇の外戚として摂政・関白という地位を占め、政治を行いました。
中世の兆し
しかし、唐王朝が滅亡する10世紀のはじめ頃から、平将門の乱、藤原純友の乱などが起き、徐々に不安定さが増し、中世の匂いがしてきます。
(古代編、おわり)
おまけ
唐王朝が滅亡後、東北の渤海、朝鮮の新羅が相次いで滅亡しています。
この動きはソ連崩壊による東欧の動きを想起させます。
*地域の覇権国がコケると周辺国もコケるというパターンは歴史上よく見られます。むろん、今後も起こりえます。
そして、日本でも平将門の乱や藤原純友の乱(承平・天慶の乱)などが起こり、武力の時代がやってきます。