大化の改新
中大兄皇子と協力者の中臣鎌足は、有力豪族の蘇我氏が主導する勢力から実権を取り戻し、皇族中心の中央集権化を図るべく、乙巳の変(645年)で蘇我氏を滅ぼしました。
そして、公地公民制という方向性を示し、中大兄皇子を中心とした中央集権化を進めました(これら一連の動きを「大化の改新」といいます)。
朝鮮半島情勢が緊迫
朝鮮半島では、高句麗、新羅、百済などの国に分裂していました。隋も唐も朝鮮半島の情勢に干渉・出兵したので、朝鮮半島では戦乱が激化し、唐と同盟した新羅が百済(660年)を滅亡させました。
新羅・唐連合軍と戦うー白村江の戦いー
百済と日本は親密であったことから、日本は百済復興を目指して、朝鮮半島に出兵しました。しかし、日本軍は新羅と唐の連合軍に海戦(白村江の戦い)で敗れ(663年)、朝鮮半島から撤退しました。
(*)制海権を奪えず敗退というケースは豊臣秀吉の朝鮮出兵を思い出させます。
その後の朝鮮半島
白村江の戦いの5年後、新羅は高句麗を滅ぼし、676年、新羅は朝鮮を統一しました。
敗戦後、日本では
白村江の戦いで新羅・唐連合軍に敗れたあと、日本はその報復を恐れて、北九州と西日本に城(朝鮮式山城)を築きました。
しかし、この心配は杞憂に終わりました。
(つづく)