武力97の男
前回の記事のような戦いぶりが評価され、かつての光栄の本には、武田信虎の武力は97と評価され、この武力は全戦国武将1000人中、堂々17位にランク・インしています(すぐ下の本です)。ちなみに、子の信玄は武力88で66位であることを考えると、いかに信虎が猛将であったか、このことからも明らかでしょう(笑)
武田家の隆盛とクーデター
駿河勢を撃退した後、信虎は関東の北条を牽制しつつ、かつては敵であった駿河の今川家と婚姻関係を結びます(信玄の姉が今川義元の正室となる)。
また嫡男の信玄には京都の公家、三条公頼の娘(三条夫人)を迎えます。これは、信虎自身の上洛戦を見据えた布石だった可能性があります。
実際、三条夫人の妹は本願寺顕如に輿入れしており、また、三条夫人の姉は細川晴元の室で、その娘が朝倉義景の室です。こういった閨閥ネットワークは信玄の晩年、信長包囲網(信玄の上洛戦)を形成する上で役立っています。
そう考えると、信玄は信虎を追放したが、信虎が敷いた路線を図らずも歩んでいたのかもしれません。
信虎、信濃へ怒涛の侵攻
話を戻しましょう。そうした外交的な冴えを見せて、背後を固めた中年信虎は東信濃へ怒涛の侵攻を行います。信濃侵攻は順調に進み、これからという時に信虎はなぜか婿の今川義元を訪問します。その帰り道、駿河と甲斐の国境で武田勢が道を堅めています。
信虎の不思議な行動と、まさかの追放
これが若き信玄(20歳)による信虎追放の瞬間でした。
この時、信虎は47歳。まだまだこれからと思っていたことでしょう。国内は盤石、あとはイケイケドンドンの状態、ただ、見方を変えると、これは必ずしも信虎でなくてもできることを意味します。
強力なリーダーがコケた例
強力なリーダーシップで、国内を統一したリーダーが統一した瞬間にコケるという例としては、ローマ時代のカエサル、マケドニアのフィリッポス2世(アレクサンダー大王の父)があります。
このパターン、あとでもう1回出てくるので、覚えておいてください。
武田信玄、当主となる
このクーデターの背景や主犯はいろいろな説がありますが、とりあえず、ここでは問わないことにします。重要なことは信虎に率いられ、国運が上昇している最中、信玄は国と家臣団を継いだのです。そして、その翌年から信玄は信濃(諏訪方面)に攻め込んでいきます。
(つづく)
武田信虎年表
資料
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武田信虎
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武田信玄