はじめに
この話は『
武田信玄と織田信長、父親たちの遺産』の続きです。
暴君、武田信虎
武田信玄の父、武田信虎は江戸時代から現代まで、暴君の権化のような男とされてきました。実際、子供の頃に見たNHKの大河ドラマでは大層ひどい男に描かれていました。
この視点の元になった軍書(甲陽軍鑑)は、武田信虎をクーデターで追放した信玄を擁護する立場にあり、それが過剰に後世に影響したと考えられています。
しかし、実際、丹念に信虎の業績を見ると、目を瞠るものがあります。
武田信虎年表
まずはざっくり武田信虎の年表をご覧ください。
この話に関係する甲府盆地の絵地図
薄く網がかかっている部分(躑躅ヶ崎館など)をクリックすると、絵地図の下に地図が現れます。なお、Internet Explorer8以下をお使いの方は正常に表示されないかもしれません。
少年信虎の苦境
武田信虎の父は若くして死去し、信虎が13歳で家督相続し、甲斐守護となった時、甲斐(山梨県)は内乱状態で、甲斐守護とのは名ばかりの状態でした。少年信虎は生きるか死ぬかの瀬戸際を渡り続けることになります。

信虎が死闘を演じた勝山城
石碑には「沼田めぐり 攻めるにたかし 勝山城」と書いてある。
青年信虎の奮闘と信玄誕生
苦闘十数年にして、青年信虎がようやく甲斐を掌握した1521年、駿河(静岡県)から甲斐に大軍が押し寄せてきました。駿河は今川義元の父、氏親の代で、東海に大きな勢力を誇っていました。
国内基盤が脆弱な27歳の信虎はここでも必死に戦いました。戦いは数ヶ月に及びました。その時に生まれたのが武田信玄です。ちなみに、信虎の身重の妻、大井夫人は危険を避けるため、本拠地の躑躅ヶ崎館(現在の武田神社)を避難して、2,3キロ北の山城(要害山城)の麓の積翠寺に移らざるをえないほどの非常事態でした。
信虎、激戦を制する
状況が緊迫する中、青年信虎は駿河勢と決戦し、駿河勢を徹底的に撃破します。これによって、信虎は生まれてきたばかりの武田家の嫡男、のちの信玄を守ることができました。
もしこの戦いに敗れていたら、信虎は討死、赤子の信玄はよくて没落、捕まったら、殺害されていた可能性があります。そうなれば、もはやのちの信玄の活躍はあり得ません。
そういう意味では、密かに戦国時代に、そして、日本史に影響を与えた一戦と言えるでしょう。

駿河勢との決戦があった辺り
(つづく)
参考
・
武田信虎
・信虎についてもっと知りたい方は私のブログ記事があるので、よろしければご覧ください(結構、長いですが)。信虎史であると同時に、実際に山梨県に行ってきた現地レポートでもあります。
ここで出てくる写真や絵地図も出典はこれらの記事です。
“荊棘の甲斐統一戦、武田信虎の「その時」を追う”シリーズ
・タイトルの「武力97の男」の由来は次の回で明らかになります。