当日:4月23日(月)
戦国時代は下克上の時代と言われ、確かにそういう出来事も多々あったわけですが、戦国史という枠組みで見た場合、時代を動かすほどの出来事は2つあったと思っています。
時代を変えた2つの出来事
1つは桶狭間の戦い。もう1つは長尾景虎(のちの上杉謙信)の関東管領就任です。
桶狭間の戦い
1つ目の桶狭間の戦い(永禄3年、1560年)は、ご存知のように、東海の覇者であり、血筋的にも申し分のなかった今川義元を、織田信長が討ちとった合戦です。
詳細はググればいくらでも出てくるので、割愛します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
http://www.adult-movie-japan.com/battle/okehazama.html
この戦いの結果、大将の今川義元と重臣など、多数失った今川家は天下に最も近かった隆盛の絶頂から衰退へと急速に向かいます。そういう意味では、義元の手腕・存在というのは大きかったと思われます。
なお、義元の父、今川氏親の母は北条早雲の姉であり、早雲が今川家の相続問題に介入して、氏親を当主に据えたという経緯があります。
"山内上杉"謙信の誕生
もう1つの出来事が長尾景虎の山内上杉姓の継承と関東管領就任です。
室町時代、山内上杉家は鎌倉公方の補佐役として、関東の政治に大きな影響力を持っていました。なお、室町幕府の初代、足利尊氏の母が上杉家から嫁いでおり、足利一門とは深い縁戚関係にあります。
時代は下って、15世紀終盤、戦国時代がはじまると、北条早雲が関東に侵攻して、徐々に関東の旧勢力を駆逐しました。その後も、早雲の子、氏綱、孫の氏康も有能で、上杉家の勢力は北に追いやられました。山内上杉憲政の時、この状況を打破すべく、上杉憲政は関東諸将を糾合して、北条包囲網を形成し、北条氏康を締め上げました。この戦略は的を得ていましたが、結局、合戦で敗れました(1546年、河越夜戦)。
その後、山内上杉憲政は急速に求心力を失い、結局、関東を放棄して、越後の長尾景虎を頼って落ちていきました。長尾景虎は関東から落ちてきた憲政から迎え、その山内上杉という名と関東管領という職位を受け継ぎました。
権威と権力の関係
権威というのは権力と結びつくことで強力さが増すという性質があります。関東管領というのは関東諸将への指揮権があるため、関東管領の指示に背くということは室町体制の反逆を意味するわけです。そのため、関東管領の味方は味方に、中立者はやや味方にするという効果があるわけです。
落ち目の関東管領には従えないが、若く国力も豊かな越後の龍が関東管領なら、頼り甲斐があるといったところでしょうか。
このことが証明されたのが桶狭間の戦いの翌年、永禄4年(1561年)の小田原包囲でしょう。長尾景虎は「山内上杉」として、関東諸将を動員して、10万とも言われる大軍で、北条氏康のこもる小田原城を攻めたてました。これは越後守護代あがりの「長尾景虎」のままでは実現できなかったことでしょう。
同年、上杉謙信は川中島で武田信玄と戦います。名目上、甲斐も信濃も関東管領の指揮下にあるべきなので、それを乱す信玄は許すことはできないという話です。このように、その後も延々と続く、上杉、武田、北条による関東三国志は永禄3年頃に根っこがあります。
戦国時代の転換点としての永禄3年
同じ永禄3年頃に転機を迎えながら、その後、着実に勢力を伸ばした織田信長と、先行した国力を持ちながら、延々と続く戦いに疲弊した上杉・武田・北条では、約20年後には全く異なる状況を迎えることになりました。
この辺のifを考えることは大変興味深いことです。
今週の参加者
今週の参加者、@Smiley_Suzukiさんの記事です。
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