【織田信長の嫡孫・織田秀信と岐阜城】写真は岐阜城。

関ヶ原の時、岐阜城の主は織田秀信だった。彼は西軍に加担し、福島正則ら、豊臣秀吉の子飼いの武将たちに攻められて降伏した。

彼が織田信長の孫(信忠の嫡男)とはじめて知った時は驚いた。
というのは、この秀信の幼名が三法師といい、本能寺の変後の清須会議で、羽柴秀吉に担がれた子なのである。

こういう誰かに担がれると厄介な子供は殺害されるか、行方不明になるのが歴史的に多いのだが、それがなんと豊臣政権の中で生き残り、岐阜城主を務めていたというのだからレアな話。

しかし、豊臣秀吉は晩年、豊臣秀頼可愛さに近親者を酷く粛清したが、三法師には手を出さなかったのは何とも感慨深い。
そして、彼を織田家にとって、ゆかりの深い岐阜城主にしていたとは。

織田信長の嫡孫・織田秀信と岐阜城

作成日:2015/1/9 , 地図あり・方位あり・方位あり, by rekius 開く

織田信長 関ヶ原の戦い 岐阜城 岐阜県 岐阜市

【姫路城備前丸から大天守と西小天守を撮影】<p>姫路城備前丸から大天守(右)と西小天守(左)を撮影。</p>
<p>黒澤明監督の『影武者』で、織田信長が馬を攻めている場面で備前丸が使われた。<br>パリパリした緊張感の中、森蘭丸をはじめ、小姓がキビキビと動き、信長と息ピッタリな様子が印象的だった。</p>
<p>あの時の信長を演じていたのが隆大介。彼は2014年のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の黒田官兵衛の叔父、黒田休夢役で、なかなかいい味を出していたなと。</p>

姫路城備前丸から大天守と西小天守を撮影

作成日:2014/11/3 , 地図あり・方位あり・方位あり, by rekius 開く

影武者 ロケ地 姫路城 兵庫県 姫路市

【その2 信虎初陣ー武田信虎の戦いー】<h2>武蔵から郡内、そして、甲府盆地へ</h2>
<p>この日、朝8時半頃に自宅を出て、調布駅で京王線に乗り、調布から高尾まで生き、高尾からJR中央線に乗り換えて、甲斐の郡内を通り、甲府盆地へ入った。</p>
<h3>意外に広い</h3>
<p>甲府盆地へ入ってまず気づいたのは、甲府盆地は意外に広いということだった。 <br>「甲斐は山国」と何度も読んでいたので、山が迫って、圧迫感があるのかと思っていた。山に囲まれているのは事実だが、圧迫感はない。南北はそれほど広くはないが、東西は広く、南アルプスの山並みが霞んでいる。</p>
<h3>甲府盆地の北東、塩山駅からスタート</h3>
<p>甲府盆地の北東にある塩山駅で降り、いつものようにブロンプトン(折りたたみ自転車)を組み立てて、歴史サイクリングをスタートした。時間は午前11時頃だった。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>甲府盆地の北東の塩山駅からスタート。 ブロンプトンを組み立てて、駅前を歩いていたら、仲良し3人組という風のタクシードライバーのおじさんに声をかけられ、またしてもブロンプトンについて熱く語ってしまった。 </em><br><em>調布駅でも声をかけられ、ブロンプトンについて語ること、この日、早くも2回目。</em>
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<em>今回の話で出てくる地名と地形の絵地図。 </em><br><em>さすがにひどいか。。。</em>
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<h3>恵林寺</h3>
<p>最初の目的地は、恵林寺である。 <br>恵林寺は信玄の本を読んでいた時によく出てきていたので、いつか行ってみたいと思っていた。幸い、塩山駅から2kmほどのところなので、行ってみることにした。 <br>分かってはいたが、上り坂である。自転車にダラダラと続く上り坂はきつい。しかも、この日は日差しが強く、恵林寺に着いた頃には汗だくになっていた。</p>
<p>恵林寺は武田家滅亡の時、織田信長に焼かれた。恵林寺の住持、快川紹喜が「心頭滅却すれば火もまた涼し」と唱えて、火定したことは有名である。恵林寺の武田不動尊も有名で、信玄をモデルに作られたといわれている。<br> 私はこの像をいつか見てみたいと思っていた。 <br>13時頃、恵林寺をあとにした。</p>
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<div>2011年9月撮影: <br>恵林寺山門 <br>快川紹喜が「心頭滅却すれば火もまた涼し」と唱えて、火定した場所に建てられたという。 なお、恵林寺はこのシリーズの中でもう1度出てくる。</div>
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<h3>気づいたこと</h3>
<p>ここからは下りである。 <br>甲府盆地は北が高く南が低い。私はいま東北にいる。ちょうど笛吹川と並行する形で、石和に向かって、風を切って下った。</p>
<p>走りはじめて、気づいたことがある。まず、人が少ない。歩いている人はほとんどいない。東京の江東区から調布に引っ越した時に、人が少なく感じだが、その比ではない。本当に人を見ない。その代わり、ブドウ畑などの果樹園がひたすら続く。まるで、住宅地と山以外はすべて果樹園のようだ。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>所狭しと広がるブドウ畑。 </em><br><em>肥料が置いているところにリアリティを感じる。</em>
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<p>もう1つある。それは豊富な水量と水流である。 <br>他の街でも家々の側溝を小川のせせらぎという感じと水が流れていることがあるが、この辺は側溝に水がガンガン流れている感じである。大雨が降って、側溝に人が流されて死亡したというニュースをたまに目にするが、どういう状況なのかイメージできず、今まで信じられなかった。しかし、急流の側溝を見て「ありうる話だ」と納得した。 <br>何せ高い山が近くにあり、かなりの傾斜があるため、このような急流になるようだ。これでは台風のような大雨が降ったらどうなるのやら、恐ろしい話だ。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>恵林寺から石和に向かう時に渡った橋から撮った笛吹川(山梨市七日市場付近) 白波が立って、急流であることが分かる。 </em><br><em>前日に雨が降ったわけでもないのにこの水量。</em>
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<h3>甲斐守護の館があった石和</h3>
<p>信虎が1519年に躑躅ヶ崎館に移すまで、石和の川田館が甲斐守護の拠点だった。 <br>父、武田信縄の死後、少年信虎も甲斐守護として、石和の川田館の主となった。いわば、石和の川田館は信虎にとって政治的人生の出発点だった。ということなので、まずは石和に行くことにした。</p>
<h3>あの木は何ですか?</h3>
<p>ところで、サンクリング中、私はブドウ畑と同じくらいの割合で存在する畑(木)が何なのか気になってきた。だが、人がいないので聞けない。</p>
<p>石和温泉駅に近くにきた。進行方向の右側30mほどのところに小さなネギ畑がある。その畑でネギにひしゃくで水をまいている中年の女性がいる。その女性に木の正体について、聞いてみることにした。</p>
<p>「すいません」<br> 「こんにちは。」ネギの女性は笑顔で応える。気持ちのいい笑顔だ。 <br>「ちょっと教えてほしんですが、あの木は何ですか?」私は近くにある畑にある謎の木を指して尋ねた。 <br>「どれ?」分からないらしい。 <br>「あれです、あの畑の木です。ちょっと栗っぽい木です」 <br>「ああ、あれは桃の木よ」至極、当然のようにいう。<br> 「ああ、そうなんですか」何と30も半ばになろうというのに、私は桃の木を知らなかった。桃の木を知らないという人間がいること自体が想定外で、どの木のことを聞いているのか、この女性は分からなかったようだ。 <br>もし桃がなっていれば、むろん、桃の木だと分かっただろうが、桃のシーズンはとっくに終わっている。</p>
<p>ということは、ブドウ畑と二分する謎の畑は桃畑ということになる。 <br>なぞが解けて、スッキリした。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>謎の木。。。 </em><br><em>この辺の子供なら、3歳児でも知っていそう。</em>
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<p>「ブドウはほとんどなっていませんね」 <br>「まあ、お盆の頃だからね。けど、緑のブドウなんかはこれからよ」 <br>「なるほど、品種が違うんですね」 <br>「そう。それに石和は温泉が出るでしょ。温暖な土地だから、できるのが早いのよ。塩山なんかはここより少し遅れるし、八代(甲府盆地の南部)なんかの巨峰はこれからよ。地域によって、見事に出来る時期が違うのよね」 <br>「へえー、そうなんですか」私は驚いた。というのは、塩山も八代もここから見える。なのに、これほど収穫時期が違うのである。 <br>「すごく驚いてるね」私の驚き方が面白いのか、ネギの女性は朗らかに笑っている。</p>
<p>他にもいろいろ話を聞いたのち、 <br>「お仕事中、すみませんでした」 <br>「はーい、がんばってねー」 <br>「ありがとうございまーす」 <br>ということで、私はネギ畑をあとにした。</p>
<h3>信虎、叔父の油川信恵と戦う</h3>
<p>笑顔が素敵なネギの女性と別れた後、10分ぐらい走ると、川田館跡に着いた。 <br>川田館跡の看板がブドウ畑の中に立っている。ここにかつて甲斐守護の館があったと想像できるものはない。しかし、かつてはここを中心に城下町に近い街並みがあったはずだ。そして、信虎の甲斐守護としての人生はここからはじまった。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>川田館跡は平等川の左岸にある。 </em><br><em>ブドウ畑の中に、川田館跡の案内板が立っている。この案内板がなければ、川田館跡だとは誰も気付かないだろう。</em><br><em> 川田館に信虎がいたのは1519年なので、1521年生まれの信玄はここで生活したことはないはずだ。</em>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>川田館跡の横で撮影したブロンプトン。だからといって、特別な意味は何も無い。 </em><br><em>前のバッグに、この歴史サイクリングで使う全ての荷物が入っている。 </em><br><em>2泊3日で自転車で130kmほど走った。乗り心地もよく、折りたためるので最高。</em>
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<p>さて、信虎の父、信縄が1507年に死去したところまで述べた。 <br>当主の交代時というのは元々動揺しやすいので、敵対勢力にとっては狙い目ではあるが、特に次の当主が若年である場合は尚更だ。当然、叔父の油川信恵は反意を露わにしはじめる。 <br>信虎は若年の当主である。普通ならここで叔父に討ち滅ぼされるのだろうが、翌年、逆に信虎は叔父、信恵の居城、曽根の勝山城にを攻めて込んで、滅ぼしてしまった。この重要な局面で初陣を勝利で飾った信虎を、信虎の支持者たちも頼もしく思ったことだろう。 <br>これで武田家内部の争いは終わった。しかし、この戦いは信虎にとって、甲斐統一の第一歩に過ぎなかった。</p>
<h3>曽根の勝山城</h3>
<p>油川信恵の居城、曽根の勝山城は甲府盆地の南部、笛吹川の南側にある。</p>
<p>石和の川田館跡を出発し、笛吹川沿い(南西)に走ること1時間ほどで、曽根にやってきた。石和と違って、この辺は稲作もしている。笛吹川の治水に成功して、用水路が整備されたことで、稲作が可能になったのだと思う。信虎の頃、この辺は洪水多発地帯だったようだ。</p>
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<em>勝山城から1kmほど上流の境川付近。 </em><br><em>稲作が行われている。石和付近の果樹園尽くしとは風景が異なる。</em>
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<p>さて、パッと見て、目立つ丘陵がいくつかある。そのうちの1つが勝山城だろうと思った。なお、郡内(山梨県東部の山岳地帯)にも勝山城がある。その城と区別するため、「曽根の」という頭文字がついている。 勝山城と思しき丘陵に近づいたが、それらしい看板などはない。 しかし、私はiPhoneを持っているため、ここが勝山城であることは分かっている。城の南側に回ると、果樹園になっており、丘陵への入り口がある。案内板がないため、果樹園に入っていいものか躊躇いながらもブロンプトンを押しつつ入っていった。 すると、勝山城の石碑を発見! やっぱりここだったかのか。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曽根の勝山城。勝山城は甲斐と駿河を結ぶ中道往還を押さえる要衝の地にある。近くには笛吹川の氾濫原が広がり、沼田に囲まれていたようだ。 </em><br><em>なお、石碑には「沼田めぐり 攻めるにたかし 勝山城」と書いてある。</em>
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<p>城跡の北端に立つと、石和方面がよく見える。 川田館の信虎にとってはいい気分ではなかったと思う。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曽根の勝山城から川田館があった石和方面がよく見える。 </em><br><em>実際に勝山城を見た歩いたら、意外と小さかった。それに丘陵といっても、それほど高いわけではない。この城は戦国末期まで使われたので、もうちょっといろいろと遺構も残っているかと思っていたが、期待していた程ではなかった。 「これが曲輪で、これが虎口で」と言われれば、「なるほど」と思うだろうが、単なる丘陵上の果樹園だと思えば、単なる果樹園にしか見えない。 </em><br><em>しかし、眺めはよく、ここに中道往還の押さえる位置からも、勝山城が重要な城であったのは頷ける。 </em><br><em>なお、この後も今川勢がこの城を用いて、信虎を苦しめることになる。</em>
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<p>かつて、この辺りは沼田であったという。甲冑に身をかためた15歳の信虎は500年ほど前の永正5年(1508年)10月4日、この勝山城付近で油川信恵勢と合戦におよび、決定的な勝利を収めた(勝山合戦)。<br> 少年信虎は一癖も二癖もある屈強な重臣たちに補佐されて戦ったのだろう。この戦いで叔父の油川信恵が戦死している。もし立場が逆だったら、この日に信虎の人生は終わっていたことになる。当時としてはありふれた話だろうが、厳しい話には違いない。 <br>実際にどういう戦いだったかは分からないが、今の勝山城は平和な果樹園であり、歴史を知らない人がここを訪れても城跡だとは気づくことはないだろう。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曽根の勝山城、遠景。結構良いアングルだった。</em>
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<h3>ホテルへ</h3>
<p>勝山城跡を降りてくると、16時になっていた。ホテルは甲府盆地の真ん中やや西側の国母近くにあるので、ここから自転車で40分ぐらいかかりそうだ。いい時間である。私はホテルに向かった。</p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>
<h3>資料: 武田信虎の年表</h3>
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その2 信虎初陣ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

武田信虎 恵林寺 川田館跡 曽根勝山城 山梨県 甲府市

【【2014/8/10放送分|軍師官兵衛】荒木村重再登場】<p>軍師官兵衛、あっという間に四国平定まで終わりましたね。</p>
<p><a>大河の年表</a>も更新しました。<br>石田三成、若いですね。まあ、関ヶ原の戦いの時で40歳なので、まあ当然といえば当然ですが。</p>
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<p>Twitterを見ていると、これでは黒田家のホームドラマではないかといっている人もいましたが、まあ、昨今の予算事情を反映して、集中と選択を進めているのかもしれませんね。本能寺の変や高松城の水攻めなどではかなりがんばっていたわけで。</p>
<p> さて、荒木村重が再登場して、得体の知れない雰囲気を醸し出していました。<br>村重カードの切り方が作品の出来を左右することもあるので、目が離せません。</p>
<p>また、織田信長亡き後、存在感を増してくるのが、千利休と茶の湯です。<br>豊臣秀吉の金ピカ世界と利休の侘び世界が併存するという奇妙な時代が来ます。 </p>
<p>秀吉政権になって、積年の仇同士が同じ陣営に入り、そこにいろいろな確執が生じるわけですが、その辺もどう表現されるかされないのか、注目したいところです。</p>

【2014/8/10放送分|軍師官兵衛】荒木村重再登場

作成日:2014/8/11 , by rekius 開く

軍師官兵衛 荒木村重 千利休

【恵林寺山門】<p>恵林寺は武田家滅亡の時、織田信長に焼かれた。恵林寺の住持、快川紹喜が「心頭滅却すれば火もまた涼し」と唱えて、火定したことは有名である。</p>
<p>山門はその場所に建てられたという。</p>

恵林寺山門

作成日:2014/6/25 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

【立河原の戦いー伊東潤 『疾き雲のごとく 』ー】<h2>立河原の戦いとその後</h2>
<p>今回のテーマは「<strong>立河原の戦い</strong>」である。</p>
<p>永正元年(1504年)、古河公方、足利政氏を擁する山内上杉顕定の軍勢と扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍が、多摩川と浅川の合流点である立河原で戦った。この戦いを立河原の戦いという。 <br>合戦の結果は、扇谷上杉氏・今川氏親・北条早雲の連合軍が大勝だったものの、その後、越後から越後上杉氏の援軍(越後守護は山内上杉顕定の実弟、上杉房能)が到着し、翌年(1505年)、扇谷上杉朝良は山内上杉顕定に降伏する。その結果、20年弱続いた両上杉氏の対立(長享の乱)は山内上杉氏の勝利で終結した。</p>
<h2>立河原の戦いと関連人物</h2>
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<h2>第5話「稀なる人」で出てくる土地をめぐる</h2>
<p><strong>伊東潤 『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』</strong>の第5話「稀なる人」では、立河原の戦いが扱われている。そこで、この話に出てくる土地をまわることにした。 <br>小説では、枡形山城→高幡城→普済寺という流れで話が進むが、その流れで走ると、ダラダラとした上り坂をひたすら登ることになる。 <br>私は、以前、古河城→小山城→結城城を巡った時に、同じくダラダラ続く登り道に苦しめられた。ゆえに、不本意ではあるが、ダラダラ上り坂は避けて、下り坂を選んだのである。</p>
<h2>出発、電車で立川駅へ</h2>
<p>さて、自宅を発して、東京駅に着いたのが午前7時、電車に乗り、普済寺近郊にある立川駅に8時過ぎに到着した。立川駅を出て、さっさと折りたたみ自転車を組み立てる。そして、iPhone4を自転車に装着して、さあ出発。</p>
<h2>普済寺</h2>
<p>最初の目的地は普済寺だった。立川駅から数百メートルほどなので、8時30分前には着いた。</p>
<p>普済寺は東京都立川市にある臨済宗建長寺派の寺院で、武蔵七党西党日奉の支族である立河氏の館があったと言われている。 <br>伊東さんの小説では、立河原の戦いに際して、山内上杉顕定は2代古河公方の公方足利政氏を奉じて普済寺に陣を構えたとしている。現地には、立河氏の館跡と言われる土塁が遺構として残っていた。</p>
<h2>多摩川へ</h2>
<p>普済寺を出て、多摩川には数分ほどで着いた。 <br>サイクリングロードに入ると、実に気持ちよく走ることができる。この日の数日前まで残暑が厳しかったが、この日の午前中は特に涼しく、サイクリングには適したコンディションだった。</p>
<p>さて、サイクリングロード沿いに南東に進み、浅川との合流点の少し前辺りまできた。<br> 伊東さんの小説では、高幡城を出た氏親・早雲の連合軍が多摩川を渡って、普済寺を出撃した山内上杉顕定勢と戦ったことになっているので、距離的に中間地帯のこの辺が戦場になるかもしれないと勝手に想像してみた。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ある程度の広さがあり、大河の河原らしい草が生えている。ただ、河原に石がないので、小説のイメージ通りにはいかない。 なお、戦いは旧暦の9月27日だったとのことなので、新暦で言うと、11月上旬頃ということになる。とすれば、渡河して体が濡れるとさぞかし兵たちは寒かっただろう。顕定にはその様子が好機と映ったとしても不思議ではない。 <br>*写真は東京都府中市四谷の辺り。 なお、渡河作戦の難しさについては、『荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正- ~その1~』に書いた。</em>
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<p>来た道を少し戻って、都道20号の橋で多摩川を渡り、万願寺駅で南下するという経路で、浅川に着いた。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>9時15分ごろ、浅川を渡る。 <br>多摩丘陵の北端が見える。写真枠外の右側に高幡城がある。</em>
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<h2>高幡城</h2>
<p>浅川を渡ると、高幡不動はもうすぐだ。高幡不動に着く前に一休みしたので、高幡不動に着いたのは10時ごろだった。高幡城は、高幡不動の裏山にあり、そこからの眺望はよく、多摩川方面を遠望できる。</p>
<p>高幡不動に着いて、自転車をとめて、境内を歩くとすぐに土方歳三の銅像が立っているので、一瞬、おやっと思った。そういえば、土方歳三は武州多摩の出身だったことを思い出した。後で調べてみると、高幡不動は新選組副長である土方歳三の菩提寺だそうだ。土産物屋をのぞくと、土方グッズがたくさん売られており、新選組人気を確認した次第である。</p>
<p>目的地は高幡城なので、かつて城があった裏山に向かった。高幡城は比高50mの山城なので、少し坂道を登ると本丸跡を見つけることができた。 <br>伊東さんの小説では、ここで扇谷陣営の軍議が行われたことになっている。今は木々が繁っているので、その隙間からしか眺めが得られないが、かつては木を切っていたはずなので、本丸からの眺めはさぞかしよかったと思う。</p>
<h2>犬懸上杉憲秋、回想</h2>
<p>突然だが、犬懸上杉憲秋という人物をご存知だろうか。中世関東史を学んだ人以外は生涯知ることもない人物だと思うが、北条早雲が生まれる1年前にこの城で自害して亡くなった人である。</p>
<p>彼の父親は犬懸上杉氏憲(禅秀)で、1416年に上杉禅秀の乱という反乱を起こした人物として有名だ。犬懸家は山内家と交代で関東管領を歴任していた名家だったが、上杉禅秀の乱を契機に没落してしまった(その代わりに台頭したのが、扇谷家)。何事もなければ、輝かしい未来を約束された人生から一転、上杉憲秋は謀反人の子供になってしまったわけだ。<br>そして、何とか手柄を立てて犬懸家を復興させようと、家運を両上杉氏に賭けて、憲秋は戦いに臨んだ。享徳4年(1455年)1月、鎌倉公方・足利成氏勢と両上杉勢は、府中の分倍河原から東京都昭島市拝島辺りで戦った。この戦い(第1次立河原の戦い)で、憲秋は両上杉氏側の先鋒を務めるが、敗れてしまい、高幡城で自刃した。なお、第2次立河原の戦いが今回のテーマ「立河原の戦い」である。</p>
<p>なぜ私はこの人物のことを書いているか、その理由を記してみたいと思う。<br> 私は以前、坂田祐樹氏の 『<a>関東公方成氏</a><img>』という小説を読んだことがあり、その中で上杉憲秋が出てくる。 <br>その小説の中で、彼は自分の運命を恨み、ニヒルな笑いを浮かべながらも社会的に生き返る機会を探しながら生きている。その姿がなぜか私には印象的だった。そして、今回、伊東さんの小説をテーマに高幡城をまわることになり、高幡城について調べていると、彼がここで自害したことを見つけ、何か思うところがあり、こうして記してみたわけである。 <br>おそらく、坂田さんの小説を読んでいなかったら、彼のことをこうして書くこともなかっただろう。そう考えると、歴史小説は過去と現在を結ぶ機能があることに気付く。たとえ回想する人が少数であっても、500年後に回想される人物はそうは多くないだろう。<br>むろん、その回想が実際の彼にどれだけ即しているかを確かめるすべはないのだが。 そして、もう1つ歴史小説が持つ面白い機能は、一度人物のイメージが形成されると、そのキャラクターに親しみを覚えることだと思う。親しみを覚えたこそ、私はこうして彼について記しているわけだ。</p>
<p>遠い昔のこととはいえ、一人の男が時代に翻弄されながらも、活路を求めて生きて、戦って、敗れ、自害したその場所にいると何かしらの思いが湧いてこざるを得ない。</p>
<h2>関戸城</h2>
<p>さて、高幡不動を出て、川崎街道を東に進み、次は枡形山城を目指す。 <br>右手に多摩丘陵を見ながら、所々、上り坂はあるものの、基本的になだらかな下り坂を走っているので、想定通り、快適に走れる。 <br>府中から見て多摩川の対岸にある関戸には、11時過ぎに着いた。<br> 今回のテーマには関係ないが、この辺りにはかつて関戸城という城があった。関戸城は、高幡城と同じく、多摩丘陵の北端にある山城で、城の右側を鎌倉街道上道が通っている要衝である。中世の府中はとても栄えていた土地で、府中の対岸にある関戸には宿があり栄えていた。また、その重要性ゆえに鎌倉の攻防をめぐって、何度も大きな戦いがあった。</p>
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<div><em>2010年9月撮影 <br>自転車で走っていて、偶然見つけた標柱。1333年に新田義貞が分倍河原と関戸で鎌倉幕府軍と戦って勝利し、その数日後に鎌倉を陥落させている。つまり、この地を制して、はじめて鎌倉への道が開かれるのである。</em></div>
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<p>事前に調べたところ、関戸城には遺構は残っていないものの、天守台の標柱があるとのことだったので、それを探すことにした。天守台がある場所というのは、一番高いところか、それに準ずるところと相場は決まっているので、それらしい場所を目指して、丘陵を登っていく。<br> 大体、この辺りだろうという勘が働いたので、その辺を歩いていると、地元の人と思しき年配の女性が歩いてきた。もしかしたら標柱のことをご存知かもしれないと思い、聞いてみることにした。</p>
<p>「あのー、すいません」 <br>「あ、はい」 <br>「この辺に昔、関戸城があって、その案内板みたいなものがこのあたりにあると思うんですが、ご存じないでしょうか。」 <br>「ええと、ごめんなさい。知らないわ。」</p>
<p>そんなやりとりをしていると、細い道にタクシーが入ってくる。私は急いで自転車を道路の横によける。そのタクシーは5mほど先に進んだところで止まった。</p>
<p>「ここは桜ヶ丘1丁目で、関戸はもっと東だから、そっちにあるんじゃないかしら」<br>「なるほど、そうなんですか。どうもありがとうございました。」<br> 私は関戸城が桜ヶ丘1丁目にあることを資料で知っていたが、親切に教えてくれた人に言い返すのも何だと思い、その場を去ろうとした。すると、後ろから声がする。 <br>「あのー」<br> 私が振り返ると、 <br>「タクシーの運転手さんに聞いてみたらどうかしら。ご存知かもしれませんよ。」 <br>なるほど、それは一理ある。<br> 私はお礼を言って、タクシーに向かった。</p>
<p>タクシーに向かうと、どうもタクシーの運転手さんはお疲れのようで、何だか話しかけずらい雰囲気だった。そこで、「まあいいか、どうせ標柱はこの近くにあるはずだ」と思って、再び探し始めました。すると、その場所からすぐのところに標柱が見つかった。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ついに見つけた「天守台」標柱。自分の推理が当たった時は素直に嬉しいものである。 <br>多摩川方面への写真を撮ろうと思ったが、この付近(桜ヶ丘1丁目)は所狭しと住宅が立ち並び、よい写真は撮れなかった。しかし、住宅の隙間からは北、東、南に視野が得られることが分かった。</em>
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<p>私が尋ねた女性がなぜすぐそこにある標柱を知らなかったのか分からないが、やはり近所であっても関心がないと知らないものなのかもしれない。というのも、私は大学生の頃、今回の目的地の1つである枡形山城の近くに住んでいたが、枡形山城の存在を知なかった。近年、中世関東史を調べていて、はじめて枡形山城の存在に気付いたのである。</p>
<p>関戸城を出た頃には、昼前になっていたので、多摩川を渡り、府中方面へ行き、中華料理屋で昼食をとった。 <br>昼食後、私は本日最後の目的地である枡形山城に向かって走り始めた。</p>
<h2>iPhone4の携帯式充電池</h2>
<p>私は「EveryTrail」という、GPSを使って自転車で走ったところを記録して、地図に書き込んでくれるソフトを使っている(*)。 <br>このソフトは便利だが、電池の消費がすさまじく、2時間半ほど使った結果、残りの電池残量が50%を切っていた。ただ、これはこのソフトの問題というより、GPSを使った同種のソフトでも同じように消費する。あらかじめ分かっていた問題だったので、私は事前にサンヨーの携帯式充電池(KBC-L2AS )を買っておいた。</p>
<p><em>(*)2010年当時の話。当時は歴史めぐりにこういうツールを使うのは先進的な試みだった。</em></p>
<p></p>
<p>装着するとこんな感じになる。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月 </em><br><em>自転車ホルダーにiPhone4を装着し、さらに携帯式充電池をiPhone4に接続した写真。バッグの中に、携帯式充電池が入っており、白いケーブルを通して、iPhoneと接続されている。iPhoneアプリの「EveryTrail」を使いながら充電できる。</em>
</div>
<div> </div>
<h2>乞田川の上り坂</h2>
<p>さて、電池の心配もなくなったので、午後の部、出発。 <br>多摩川を再び南側に渡って、川崎街道を東進する。乞田川(こったがわ)を渡るあたりから、上り坂が続く。昼食をとったばかりで元気だったので、最初は颯爽と駆け上がっていったが、走っても走っても終わらないので、ついに自転車を押して歩くことにした。あとで、乞田川にかかる橋から坂がおわる連光寺坂上辺りまで距離を測ってみると、1km強あった。長いはずである。</p>
<h2>懐かしの向ヶ丘公園駅</h2>
<p>その分、下り坂は気持ちよく走ることができた。 <br>その後も、基本的に下り坂なので快適だ。特に問題もなく、稲城市を通って、川崎市多摩区に入る。そして、14時ごろ、懐かしの向ヶ丘遊園駅に着いた。私は大学生の頃にこの周辺に住んでおり、向ヶ丘遊園駅にもよく来た。駅は改装されたようで、きれいになっていた。並んでいる店も結構変わっていたが、街の構造自体に変化はないようだ。</p>
<h2>枡形山城へ</h2>
<p>さて、今回は感傷に浸りに来たわけではないので、気を取り直して、枡形山城に向かう。 <br>枡形山城は、直線距離で向ヶ丘遊園の南700mほどのところにある生田緑地の中にある。当城は、標高80m強、比高60m弱の山城で、多摩丘陵の北端にあり、多摩川方面の武蔵野台地を一望できる。そういう点では、高幡城や関戸城と似ている。</p>
<p>永正元年(1504年)の立河原の戦いの時、北条早雲が先に当城に着き、数日後の9月20日に今川氏親が到着して、合流した。その様子が伊東潤 『疾き雲のごとく 』の第5話「稀なる人」でも書かれている。そして、その後、早雲と氏親は9月27日の立河原の戦いを迎えた。</p>
<p>枡形山城跡を目指して山を登っていくと、緑が豊かで改めて良いところだと思った。大学時代、一度も訪れたことがなかったのは惜しいことだ。 <br>山頂に着くと、子供連れの親子が結構たくさんいる。子供が大声で叫びながら、遊んでいる。山頂はそれなりの広さがあり、公園になっている。遊ぶ環境もあり、当然クルマも走っていないため、親にとっては安心して遊ばせることができるスポットなのだろう。</p>
<h2>iPhone4の逆光問題</h2>
<p>曲輪の北端には、結構大きな望楼が建っていて、そこから四方を遠望することができる。 <br>早速、iPhone4で写真を撮ってみた。すると、逆光のためか、写りがよくない。そこで、Panasonic製のデジカメ(2009年の8月頃に購入したDMC-FT1)で撮ってみると、かなり違いがあった。高幡城でも少し気にはなっていたが、やはりそうだったのかという感じだ。「iPhone4があるので、デジカメは必要なし」というわけにはいかず、当面、併用することになりそうである。 <br>まあ、写真を編集すればある程度は何とかなるが、数が数だけにできるだけ、そのまま使いたいものだ。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>iPhone4で撮影した枡形山城からの写真。</em>
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<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>Panasonic製デジカメ(2009年の8月頃に購入したDMC-FT1)で、ほぼ同じ場所と時間から撮った写真。ただし、逆光ではないところで撮ると、それほど変わらない。さすがにPanasonicのデジカメはカメラ専用機器だけあって、対応できる状況の幅が広いのだろうか。</em>
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<p>城の周辺を少し散策したあと、向ヶ丘遊園駅に戻り、この日の歴史サイクリングを終えた。</p>
<h2>おまけ: 寿桂尼の生涯</h2>
<p>「稀なる人」の最後のほうで、今川氏親が藤原北家カ勧修寺流中御門家の娘を妻に迎える話が出てくるが、この女性こそ、後に寿桂尼と呼ばれる人で、今川氏親の正室であり、今川義元の母である。</p>
<p>氏親が晩年、病気で政務をとれなくなると、氏親を補佐した。氏親の死後も、陰に日向に今川家を支え続けた。今川義元が当主になると、今川家の全盛期を迎えた。しかし、義元は、永禄3年(1560年)、尾張攻略の途中に桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られてしまう。 <br>その後、今川義元の子(寿桂尼の孫)、氏真が当主となるが、今川家の衰退がはじまり、永禄11年(1568年)武田信玄の駿河侵攻の数ヶ月前に寿桂尼は死去した。</p>
<p>彼女は1505年頃に今川家に嫁いでいるので、晩年の早雲を知っていたはずであり、織田信長のために、頼りになる実子の義元を失い、武田信玄によって、今川家が実質的に滅ぼされる直前まで生きたことになる。 <br>このように、寿桂尼の生涯を追っていくことで、戦国初期(代表的人物:早雲)から中期(代表的人物:信玄)、そして、後期(代表的人物:信長)のはじまりまでを見ていくことができる。</p>
<p>分かりきったことではあるが、寿桂尼の人生を通して、戦国時代とは何とも厳しい時代であったと改めて思うのである。</p>
<p>(終)</p>
<p><em>* なお、マップの位置は今回の歴史サイクリングの範囲を大体示すために設定した。合戦がそこであったという意味ではないので、ご注意を。</em></p>

立河原の戦いー伊東潤 『疾き雲のごとく 』ー

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

立河原の戦い フィールドをゆく 北条早雲 戦国黎明と北条早雲ーフィールドをゆく(3)ー

【長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜】<h2>別の戦国時代をつくる可能性を持っていた男、長尾景春</h2>
<p>別の戦国時代を作る可能性を持っていた人物として、長尾景春がいる。一般には知られざるこの人物について、これから書いていきたい(*)。</p>
<p><em>(*)この記事の公開は2011年10月14日で、長尾景春が主役の歴史小説、伊東潤氏『叛鬼』はまだ出版されていなかった。伊東さんの著書によって、長尾景春はの知名度は以前よりも上がったと思う。</em></p>
<p>長尾景春は訳あって、主人の関東管領、山内上杉顕定を相手に謀反を起こし、主の顕定を窮地に陥れた。これが文明8年(1476年)からはじまる長尾景春の乱で、景春が30代前半の頃のことである。しかし、不運にも、彼の同時代には太田道灌がいた。</p>
<p>長尾景春は巧みな外交と調略を駆使して、戦略的優位を準備するものの、太田道灌との戦闘に敗れた。戦略的に勝っているからといって、自動的に最終的な勝利が得れれるというものではない。</p>
<p>長尾景春について述べる前に、同姓の越後守護代、長尾為景について見ていきたい。</p>
<h2>下克上を成功させた男、長尾為景</h2>
<p>永正4年(1507年)長尾為景は越後守護の上杉氏に下克上を起こして成功し、傀儡の越後守護を擁立することに成功した。そして、首尾よく傀儡越後守護も追放して、為景自身が越後の支配者となった。彼の息子の長尾景虎はその地盤を引き継ぎ、さらには、(北条早雲の孫、北条氏康に河越夜戦(1546年)で撃破され、その後、没落させられた)関東管領の山内上杉憲政から山内上杉氏の名と関東管領の職を受け継ぎ、「山内上杉」謙信となった。そして、謙信は武田信玄や北条氏康、織田信長といった戦国の雄たちと激しく争うことになる。</p>
<h2>「長尾景春の乱」の原因:景春、山内上杉氏の家宰職を継承できず</h2>
<p>社会的地位からいうと、長尾景春は越後守護代の長尾為景(上杉謙信の父)と似たところにいた。</p>
<p>長尾景春の祖父(白井長尾景仲)も父(白井長尾景信)も、主の山内上杉氏の家宰(執事)だった。文明5年(1473年)に、父の長尾景信が死去した。景春は、当然、自分がその地位を引き継げると思っていた。 <br>しかし、彼の家(白井長尾家)の勢力が主家を凌ぐのを恐れた若き当主、関東管領の山内上杉顕定が、景春の叔父を家宰に任命した(上杉顕定の懸念は、越後の長尾為景の例を見ても空想ではなかった)。 <br>景春にとって、この処置は認められるものではない。怒りなどの感情もあっただろうが、それより、家宰職には膨大な利権があり、家臣や同輩はそれを当てにしている。景春が利権を手放せば、人々は去っていき、景春の政治生命は致命的なダメージを受けることになる。 <br>景春は政治的な死を選んで隠遁するか、家宰職を認めさせるために主と戦うかの二者択一を迫られたのである。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年10月撮影 </em><br><em>白井城から榛名山をのぞむ。手前に流れる川が吾妻川。 </em><br><em>白井城は代々、山内上杉氏の家宰を務める白井長尾家の本拠地だった。当城は群馬県渋川市白井に位置する崖端城である。白井城の西側を吾妻川が東側を利根川が流れており、城の南側で合流しており、さらに三国街道がこの城の近くを通るため、上野と越後の交通の要衝でもある。 </em><br><em>かつての城域の大部分は、現在、畑だが、一曲輪を中心に遺構も残っている。</em>
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<h2>景春、挙兵</h2>
<p>景春は関東の有力国人を多数味方につける一方、文明8年(1476年)頃、<a>鉢形城</a>を築城して拠点とした。また、当時、享徳の乱が継続中で、主家の山内上杉氏と古河公方は対立しており、主家と敵対している古河公方、足利成氏を味方につけ、着々と軍事的、外交的な策を駆使して、蜂起のときを待った。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年4月25日撮影 </em><br><em>鉢形城の北側からのアングル。写真中央の川が荒川。城の堅固さが偲ばれる。遺構の良好に残り、北条氏末期の鉢形城の様子がよく分かる。 </em><br><em>長尾景春が太田道灌(両上杉氏)との戦いに敗れ、この城を追われたあと、この城は山内上杉氏の武蔵支配の拠点となった。16世紀の半ばに、後北条氏が山内上杉氏に代わって、この地を支配するようになっても、鉢形城は重要拠点でありつづけた。景春の築城眼は的を得ていたようだ。</em>
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<em>長尾景春の乱、概略絵地図 </em><br><em>当時の関東は、利根川を境に東が古河公方の勢力圏、西が両上杉氏の勢力圏だった(なお、当時の利根川の流路は現在と違い、関東を東西に分けていた)。古河公方勢と対戦中だった両上杉の前線拠点、五十子陣は背後から長尾景春に攻撃され、崩壊した。</em>
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<h2>景春の、そして、関東の運命を握る男、太田道灌</h2>
<p>景春にとって、最大の脅威は江戸を中心に勢力を持っている太田道灌だった。道灌は文武両道の名将で、足軽を組織して、強力な軍事力を養う一方、関東の大河の下流を押さえる江戸に堅固な江戸城を築き、大きな経済力も持っていた(道灌はその強力さ故に、10年後、道灌の主人、扇谷上杉定正に謀殺されることになる)。</p>
<p>ただ、道灌は主の扇谷上杉定正や定正の同盟者である山内上杉顕定との関係がうまくいっておらず、彼らの間に溝が広がりつつあった。景春にとって、道灌は敵にまわすと最大の脅威なので、この隙をついて、道灌を味方につけるか、それが無理ならせめて中立を維持させる必要があった。</p>
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<em>2010年2月撮影</em><br><em>江戸城に残る3つの櫓の1つ、富士見櫓。かつて太田道灌が築いた静勝軒の故地に江戸城の富士見櫓が建っているという。 静勝軒は道灌の軒号でもある。</em>
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<h2>景春、初戦に勝利。</h2>
<p>景春は道灌と両上杉首脳の不仲を好機として蜂起した。景春の基本戦略は五十子陣にいる両上杉首脳と道灌の連携を分断し、道灌を足止めする一方、両上杉の軍勢に打撃を与え、機を見て、主の山内上杉顕定と和睦し、政治目標を実現するというものだったと思う。家宰職を得ることが景春の政治的な目標なら、この戦略は的を得ているだろう。</p>
<p>初戦は上々で、文明9年(1477年)1月に主の顕定と扇谷上杉定正のいる五十子陣を襲って崩壊させた。顕定と定正は何とか利根川の北に逃げ延びた。これが「長尾景春の乱」の最初の戦いだった(この戦いは4年に及んだ)。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年4月撮影 </em><br><em>両上杉氏が古河公方との戦いのために築いた五十子陣跡。近辺は茫漠たる平野が広がる。 その重要な拠点を景春は崩壊させた。そのため、両上杉首脳は窮地に陥るが、太田道灌の活躍によって何とか生き延びた。</em>
</div>
<h2>道灌、動く</h2>
<p>景春は山内上杉顕定との和睦の取次ぎを期待して、道灌に使者を送った。景春の政治的目標は山内上杉氏の家宰職の継承だったのだと思う。そうでなければ、顕定勢の撃滅を目指していたはずだ。 <br>景春の意図はどうであれ、結局、道灌による和睦斡旋は失敗した。すると、道灌は景春を討つべく、江戸城から北上してきた。</p>
<p>道灌は江戸城と河越城の連絡線を遮断している練馬城・石神井城の豊島氏を江古田・沼袋の戦いで撃破した。この戦いによる勝利で江戸城・河越城のラインを確保した道灌はさらに北上を続けた。 <br>景春は当時五十子陣にいた。道灌は、景春の拠点、鉢形城と五十子陣の間で陣を構えることで、景春の補給ラインを分断した。景春は補給ラインを確保すべく南下したが、これは道灌の「手」だった。</p>
<p>道灌は景春をおびき寄せて合戦に持ちこんだ(用土原・針谷の戦い)。景春は道灌の術中にはまり、敗れた。その後も、道灌は景春勢を各地で撃破して、景春を秩父の奥地に追い込んでいった。そして、文明12年(1480年)、景春最後の拠点、秩父の日野要害(熊倉城)も道灌に攻略され、景春は没落した。</p>
<p>なお、景春は道灌の妻の甥にあたり、お互いよく知った仲であったと言われている。</p>
<h2>景春の実現されなかった可能性を考える</h2>
<p>長尾景春は長尾景春の乱に敗れたが、その後も神出鬼没の活躍で、主の山内上杉顕定を苦しめた。やはり、只者ではなかったことが分かる。しかし、これらの活躍もあくまでも好機に便乗するという形であって、景春が再び時代の主役になることはなかった。</p>
<p>ここで、少々、「もし」を考えてみたい。 <br>もしこの時道灌が江戸城を動かなかったり、さらに言うと、道灌が景春に協力していたら、古河公方との戦いにも直面していた両上杉氏(山内上杉氏と扇谷上杉氏)は二方向、道灌も含めれば、三方向から挟撃され、一時的であれ、両上杉氏主力が壊滅していた可能性はかなりあったと思う。</p>
<p>当時、長尾為景の下克上はまだ起こっておらず、山内上杉氏は越後上杉氏の援軍を期待できたため、山内上杉氏がたやすく滅亡したかどうかは疑問ではあるものの(また、京都では弱体ながら室町幕府は存在していた。幕府は基本的に親上杉なので、近隣諸国からも両上杉氏に援軍が来ていた可能性もある)、一方では景春か道灌が古河公方を担いで関東を統一し、彼らの子供あたりが源頼朝のように関東の強兵を率いて京に攻め上り、天下に号令していた可能性もゼロではない(実際、永正5年(1508年)、大内義興は前将軍の足利義稙を擁して上京し、10年間、自派の政権を維持した)。</p>
<p>実際には、このシナリオ(景春と道灌が同盟し、両上杉氏を倒すシナリオ)は実現されなかったわけだが、もし実現していたら、その後の展開は全く変わっていただろう。 <br>状況は違うが、後に景春や古河公方と同盟して、両上杉氏と対抗した人物がいる。そう、それが北条早雲である。もしこの時(景春が蜂起したとき)に早雲が道灌の立場であれば、どういう判断を下していただろうか。</p>
<h2>長尾景春と長尾為景</h2>
<p>結局、失敗した長尾景春の乱だったが、景春は優れた戦略家であり、実行力もあった。ただ、相手(太田道灌)が悪かったと言えるかもしれない。</p>
<p>長尾景春の乱から、約30年後、越後で長尾為景が越後上杉氏を倒して、下克上に成功した。 長尾景春はある意味、長尾為景になり損なった男ということもできると思う。</p>
<h2>年表: 長尾景春の乱</h2>
<div> </div>
<p>(終)</p>

長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜

作成日:2014/6/22 , by fuji3zpg 開く

長尾景春の乱 フィールドをゆく 太田道灌 室町体制崩壊期の関東と太田道灌ーフィールドをゆく(2)ー

【応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書】<h2>京の影響を受ける関東</h2>
<p>当サイトの記事で何度か書いているとおり、北条早雲の時代、関東の情勢は京都の情勢に強く影響されます。ですから、早雲について調べていると、どうしても京都のことも知りたくなってきます。そして、早雲が活躍する一昔前、京都の情勢に大きな影響を与えた事件といえば、応仁の乱でしょう。</p>
<p>応仁の乱の原因は諸説あり、登場人物は多岐にわたり、しかも名前が似ており、血縁、養子関係も複雑で到底ここで書く気になれません。そこで、応仁の乱を題材にした書籍を紹介することで、早雲前史としての応仁の乱を理解するという目的を間接的に達成したいと思います。</p>
<p><a><img></a></p>
<h2>参考となる歴史解説書</h2>
<p>昨年(2009年)、一般読者向けの日本中世史シリーズが発売されました。日本中世史ファンには朗報と言えるでしょう。応仁の乱については、</p>
<p><strong>池 享『戦国大名と一揆 (日本中世の歴史6)』, 2009</strong></p>
<p>で扱われています。</p>
<p>(*)日本中世の歴史6とあるように、この本はシリーズ6冊目であり、最終巻でもあります。</p>
<p>応仁の乱前後の政治史のみならず、社会史にも言及されており、戦国史の本のさわりだけの解説では飽き足らないが、応仁の乱前後の専門書を読む気にはなれない戦国ファンには良書だと思います。</p>
<h2>足利義政が主人公の歴史小説~池波正太郎『賊将』~</h2>
<p>この歴史解説書を読むと応仁の乱のことは理解できますと言いたいところですが、初学者の場合、おそらく読んでもすぐ忘れて、ゴチャゴチャしていたことだけが記憶に残るでしょう。それは本の完成度の問題ではなく、解説する対象が複雑だからです。しかし、解説書で一応理解したあと、時間を置かず、すぐに歴史小説を読み、主人公とともに間接的に当時を追体験すると理解と記憶が深まります。</p>
<p>応仁の乱を題材にした有名な歴小説は2つあります。</p>
<ul>
<li><strong>永井 路子『銀の館』</strong></li>
<li><strong>池波正太郎『賊将 改版』</strong></li>
</ul>
<p>永井さんの本は読んだことがないので、言及しません。<br>池波さんの『賊将』は6つの短編小説で1冊の本になっており、その第1作目が「応仁の乱」です。短編小説とは言っても、180ページほどあるので、十分読み応えがあります。 <strong>司馬遼太郎『箱根の坂』</strong>でも、若き早雲の目を通して、応仁の乱前後の京が書かれています。不遇な若き早雲は辛辣に権力者たちを見ており、早雲を通して、司馬さんはバッサリと彼らを斬っていくので読者としては痛快ではありますが、もし自分が当時の支配者層に生まれていたら、どうにかできただろうかという視点で見ると、また違った景色が見えてきます。</p>
<h2>あなたならどうする?</h2>
<p>その1つのシミュレーションとして、池波さんの「応仁の乱」は参考となると思います。この作品は室町幕府の8代将軍、足利義政が主人公です。義政の父、6代将軍、足利義教は弱体な室町幕府の権威と権力を強めようと奮闘します。</p>
<p>しかし、その行動は有力守護大名からみると、迷惑であり、脅威に他なりません(永享の乱も、彼の強権路線に鎌倉公方、足利持氏(のちの古河公方となる足利成氏の父)が反発したという側面があります)。そういった緊張関係の中で、足利義教は、将軍家と彼に恨みを持つ赤松満祐に謀殺されてしまいます。</p>
<p>将軍である父親が一守護大名に殺害され、早世した兄の後を継いで、義政はわずか14歳で将軍職を継ぎます。現代なら、中学生の年頃ですね。 こういう状況では当然義政に実権があるわけもなく、足利一族の畠山氏や義政の側近が権勢を奮います。本人にすれば、「名ばかり将軍」であって、どうにもならない感があったことは無理なく推測されます。もし実権を取り戻そうと、強引なことをすれば、父のような最期を迎えるかもしれません。それでも放置していてうまくいっていれば、まあよいかもしれませんが、細川氏と山名氏などの有力守護大名間の争い、既存宗教勢力に加え、新興宗教勢力の台頭、土民の蜂起など、混乱は深まるばかりです。そして、義政は現実に絶望して、芸術に逃避します。</p>
<p>この行為が批判の対象となるわけですが、あなたが義政だったら、こういう状況でどうするでしょうか。</p>
<p><a><img></a></p>
<div><em>応仁の乱の一局面を描いた関係図 実際には時間の推移と共に複雑怪奇な動きを見せる。</em></div>
<p> </p>
<p>イントロはこれくらいにして、あとは池波さんの本に譲ります。彼はさすがに人気作家だけのことはあって、私は最後まで興味深く読みました。義政の絶望とその後の混乱、そして、この混乱を最終的に収めた織田信長という強烈な人物と政権。このラインが見えてくれば、戦国史をより深く、多面的に理解できるのではなかろうかと思います。</p>
<h2>資料: 応仁の乱</h2>
<div> </div>
<p>(終)</p>

応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書

作成日:2014/6/14 , by fuji3zpg 開く

足利義政 応仁の乱 フィールドをゆく 室町から戦国時代への動きと北条早雲の生涯ーフィールドをゆく(1)ー

【早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-】<h2>なぜ早雲か?</h2>
<p>戦国時代というと、人気があるのは武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉あたりでしょうか。こういった人気のある戦国武将を差し置いて、なぜ私は北条早雲という人物をテーマにしているのでしょうか。以下、理由を述べてみたいと思います。</p>
<h2>室町幕府の成立と相対的安定期</h2>
<p>有力守護大名の連合政権だった室町幕府は成立の当初からを弱体でしたが、曲がりながらにも権威と権力を持った室町幕府は正義を提供していました(ただし、足<br>利義満の時代から嘉吉の乱(嘉吉元年(1441年)、6代将軍、足利義教が赤松満祐に暗殺された事件)までは比較的安定していました。つまり、幕府が正し<br>いとすることが正しいということで世の中がそれなりに処理されていました。</p>
<h2>立ち腐れる室町幕府と織豊政権の成立</h2>
<p>しかし、室町体制が崩壊すると、何が正しいかは戦いによって決まる時代に入ってしまいました。その結果、自衛のため、弱者は有力者を頼り、有力者は最有力者を頼るという関係が各地で再構築され始めました。その権力の頂点が戦国大名です。<br><br><em>司馬さんは、早雲の生涯を通して、この辺りのプロセスをうまく書いています(参考図書を参照)。</em><br><br>そして、戦国大名同士、さらには戦国大名と宗教勢力の戦いがはじまり、最終的には織田信長の地盤を受け継いだ豊臣秀吉が、天正18年(1590年)に早雲の子孫である後北条氏を降して、全国を統一しました。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2010年9月撮影</em><br><em>全国で最後まで豊臣秀吉と戦った後北条氏の本拠地、小田原城から見た石垣山の眺め。豊臣秀吉は石垣山に石垣山一夜城を築いた。</em></p>
<h2>戦国時代はいつからか?</h2>
<p>戦国時代のはじまりというのは、実はいろいろな解釈があって、これが定説という年は決まっていません。応仁の乱がはじまった1467年説、旧説では北条早雲の伊豆討ち入りの1491年説、近年では明応の政変の起こった1493年説が有力なところです。<br>私見では、弱体ながらも、室町幕府というのは、9代将軍、足利義尚までは存在していたと考えています。しかし、その後、細川政元による明応の政変(1493年)以降は、京都を押さえ、将軍を擁した有力戦国大名が実力で政権を立てるようになるため、その時点で足利将軍を中心とした室町幕府の実体は消滅したという考えています。いずれにしても、15世紀の後半には実体としての室町幕府は消滅し、戦国大名がしのぎを削る戦国時代に突入したと考えてよいと思います。<br>なお、1492年に、コロンブスが大西洋を渡ってカリブ海のサンサルバドル島に到達します。つまり、早雲が生きた時代に、西欧では大航海時代を迎えていま<br>した。</p>
<h2>室町体制の崩壊と秩序の再編</h2>
<p>戦国初期というのは、室町体制の崩壊と秩序の再編が激烈に行われた時期でした。この時期には、誰が最終的に全国を統一するか全く分からない状態でした。つまり、ちょっとした基盤があれば、誰にでもチャンスがあった時代でした。安芸の一国人に過ぎなかった毛利元就(北条早雲の約40年後出生)が一代で中国地方をほぼ統一したのはその代表例です。</p>
<h2>戦国初期の目まぐるしさ</h2>
<p>とにかく、戦国初期というのはいろいろな人物が出てきては消えていきます。系図と年表を広げながら、書籍や資料を読んでいかないと、すぐに訳が分からなくなります。当然、当時を生きた人は当事者なわけですから大変です。享徳3年(1454年)に享徳の乱がはじまり、全国に先駆けて戦国時代に突入した関東では、関東管領家の山内上杉氏や扇谷上杉氏といった守護大名の当主レベルでも、戦死した人物は少なからずいます。ですから、その下の階級のレベルの人になると、それはもう大変な状態だったでしょう。</p>
<h2>早雲は関東地生えの人ではなかった</h2>
<p>関東では、最終的に後北条氏が最有力勢力になりましたが、当初、早雲は関東に寸土も持っていない状態でした。ですから、太田道灌が謀殺された頃(文明18年(1486年))、彼の子孫が関東の主になるとは誰も考えることはできなかったでしょう。つまり、状況によっては、他の未来もいくらでもありえたのです。</p>
<h2>なぜ早雲を調べているのか</h2>
<p>武田信玄や織田信長の時期には次の天下人の有力者が見えてきており、戦国初期のようなカオス感はありません。このカオス感が戦国初期の魅力の1つです。<br><br>戦国初期のカオスの渦中にあって、当事者たちは何を思い、何を行って、どういう秩序を新たに作り上げていったのでしょうか。<br><br>その体現者の一人が北条早雲です。<br>また、早雲の主な活動範囲は、京ー駿河ー伊豆ー相模で、私自身の活動範囲に近いときています。<br>そのため、北条早雲をしかと調べたいと思ったわけです。<br><br>(終)<br><br></p>
<h2>参考図書: 北条早雲が主人公の歴史小説紹介</h2>
<h3>司馬遼太郎『箱根の坂』</h3>
<div>司馬さんの最晩年の歴史小説(初版は1984年。司馬さん、61歳の時)。全三巻。</div>
<p>魅力的なストーリーに匠に歌を織り交ぜ、あっという間に物語に引き込まれました。彼の作品の中でも屈指の作品だと思います。<br><br><a>新装版 箱根の坂(上) (講談社文庫)</a><br><a>新装版 箱根の坂(中) (講談社文庫)</a><br><a>新装版 箱根の坂(下) (講談社文庫)</a><br><br></p>
<h3>伊東潤『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』</h3>
<p>ただ、『箱根の坂』が出版されてから、既に一世代経つなかで、新学説が出てきています。新説に対応した作品が伊東潤『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』です。<br> この作品は主人公からその時代を見るという伝統的な手法と違い、早雲に関わった人から早雲を見るという視点で書かれています。6つの短編小説から成り、各短編小説はそれ自体で完結しています。<br><br> 短編小説の各主人公はそれぞれの人生の中で、早雲(宗瑞)という人にあって、重大な影響を受けます(多くは、悲劇的な結果となる)。<br> 数ある早雲を主人公とする歴史小説の中でも異彩を放つ作品です。<br><br><a>疾き雲のごとく (講談社文庫)</a><br><br></p>
<h3>伊東潤『黎明に起つ』</h3>
<p>伊東さんの長編小説です。<br>早雲と北条氏の民政重視の政治は有名ですが、本書では、どういう背景・経験を通じて、早雲が民政重視の思想を持つに至り、実践していったかが強烈に意識されて、書かれています。<br><br> 早雲も生まれてすぐに民政重視の政治をしようと思ったわけではないでしょう。幼少の頃より、応仁の乱をはじめとする乱世に揉まれ、その中で思想を確立し、統治システムを練り上げていったわけです。<br> その早雲の軌跡が、見所です。<br><br><a>黎明に起つ</a><br><br></p>

早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-

作成日:2014/6/13 , by fuji3zpg 開く

フィールドをゆく 北条早雲 室町から戦国時代への動きと北条早雲の生涯ーフィールドをゆく(1)ー

【京都御所】1569年、織田信長が擁立した足利義昭の御所として建てた二条御所(旧二条城)の石垣。烏丸線建設時に発掘された石垣を復元したとのこと。

作成日:2013/5/31 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

京都府 京都市

織田信長 のノート

本圀寺跡の石碑。1568年、織田信長の後ろ盾を得て、上洛を果たした足利義昭は本圀寺(日蓮宗)に入った。しかし、翌年、京都を追われた三好三…
勝幡城。中世の尾張で水運と商業の拠点として栄えた津島の北東3kmにある。織田信長が誕生した城で、一時、信長の父、織田信秀の居城でもあった…
織田信長の父、織田信秀の年表。1510年頃、清須織田家の三奉行の1つ、織田弾正忠信定の子として誕生。1533年、飛鳥井雅綱と山科時継が勝…
古渡城(ふるわたり)1534年、織田信秀が古渡城を築城。1546年、織田信長が古渡城で元服。1548年、織田信秀が末森城を築城し、古渡城…
【京都御所】1569年、織田信長が擁立した足利義昭の御所として建てた二条御所(旧二条城)の石垣。烏丸線建設時に発掘された石垣を復元したと…
【躑躅ヶ崎館】西曲輪、南側の土塁。確かに土塁は高いが、武田信玄最盛期の頃、100万石の大名の居城とは思えないものだった。おそらく、信玄は…
【本圀寺】1569年、織田信長の後ろ盾を得て、上洛を果たした足利義昭は本圀寺に入った。しかし、京都を追われた三好三人衆は反撃に転じて、本…
早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-
応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜

北条早雲 のノート

韮山城の本丸から守山をのぞむ。 守山は写真中央奥の濃い緑の丘陵。守山の背後(西)には狩野川が北流し、手前(東)には下田街道が通って…
大徳寺の総門。大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山で、京都の紫野にある。大徳寺に在籍した僧として、一休宗純や沢庵が有名。また、大仙院庭園は、東…
願成就院がある韮山の平野は、平安末期、鎌倉北条氏の地盤で、北条時政が願成就院の開基。願成就院は盛衰を重ねな室町時代の1493年、北条早雲…
延命寺。戦国初期の1513年、東進を続ける北条早雲に対し、三浦道寸は岡崎城、鎌倉で戦ったが、敗北。三浦半島南部の新井城に落ちた。早雲勢を…
住吉城。戦国初期の1513年、東進を続ける北条早雲に対し、三浦道寸は岡崎城、鎌倉で戦ったが、敗北。三浦半島南部の新井城に落ちた。早雲勢を…
小田原城本丸の天守閣。北条早雲時代の小田原城主郭は小田原城本丸の北側の八幡山古郭と言われている。八幡山古郭の方が本丸よりも標高が高いので…
新井城の主郭を囲む高い土塁。小田原城を押さえた北条早雲は、三浦道寸率いる三浦勢を破って、さらに東進を続け、ついに、ここ新井城に押し込めた…
高越城跡。近年の研究で、高越城のある備中荏原荘は北条早雲の出身地とされている。・井原市観光協会http://www.ibarakanko…
狩野城。伊豆の国人、狩野一族の本拠地。北条早雲が伊豆に討ち入った際、狩野氏は、堀越公方の足利茶々丸の与党だったため、早雲と敵対した。茶々…
深根城。下田城から8kmほど北方、稲生沢川の南側にある。1498年、北条早雲は、敵対していた堀越公方・足利茶々丸の支持基盤たる南伊豆制圧…

武田信虎 のノート

北条早雲と武田信虎は同時代人
若き武田信虎による甲府盆地統一戦の絵地図。 昭和インター辺りから竜王の信玄堤→椿城(上野城)→富田城を歴史サイクリングしたが、黄色の太…
武田信虎と戦った大井信達の居城、椿城。その椿城に向う台地から甲府盆地をのぞむ。 街がずいぶん小さく見える。
武田信玄公母堂、大井夫人誕生の椿城跡
釜無川にかかる橋の上から雲間の光をのぞむ。本物は遥かによかった。 武田信虎や武田信玄も同じような空を見ただろう。
「飯田河原古戦場慰霊碑」付近から荒川左岸を撮影。 1521年、福島正成率いる駿河勢は1万5千ともいう大軍で甲斐に侵入したため、武田信虎…
躑躅ヶ崎館付近の絵地図
飯田河原合戦と上条河原合戦の絵地図
なぜ信虎か?ー武田信虎の戦いー
その1 信虎以前ー武田信虎の戦いー

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応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-
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